マラルメ年譜(1885-1898) 


作成:坂巻康司

この年譜は、プレイアード新版第1巻(1998年)所収の年譜(Bertrand Marchal編)、及び、J.N.Illouz, Le Symbolisme, Livre de Poche, 2004を元に
作成したものです。今後、随時改訂・補足の予定です(2005/8/31)。一部、誤記を訂正(2006/4/20)。



≪1885年≫

・1月 「プローズ」、『独立評論』に発表
・2月18日 3ヶ月の休暇を文部大臣に申請
・3月 「処女にして生気に満ちた美しい今日・・・」、「時の芳香がいかなる絹の・・・」(『独立評論』)
・8月8日「リヒャルト・ワーグナー、一フランス詩人の夢想」(『ワーグナー評論』)
・9月10日 デュジャルダンとバレス宛の書簡で、夢想する演劇について語る(「・・・創られるべき唯一の<ドラマ>の一断片であり、<人間>と<観念>の<ドラマ>であり、その根底は僕のワーグナーについての記事が覆っているものである」)
・10月 マラルメ、コレージュ・ロランの教師に任命される
・10月19日「エドガー・ポーの詩」の出版をヴァニエと契約するも、ヴァニエは履行せず
・11月16日 ヴェルレーヌ宛「自叙伝」書簡で、「書物」に関して言及(「地上世界のオルフェウス的解明、それこそが詩人の唯一の務めであり、これ以上ない文学的な営為なのです」)

≪1885年の文化・社会状況≫
政治:フェリー失墜。グレヴィ大統領に再選。ユーゴー死去(5月)
文芸全般:『ワグナー評論』、『スカパン』創刊
<詩>
ギル『魂と血の伝説』、ラフォルグ『嘆き節』、レニエ『翌日』
<小説>
ゾラ『ジェルミナール』
美術:ルドン『ゴヤ礼賛』『悪夢』、ゴッホ『馬鈴薯を食べる人』
音楽:ワーグナー『ローエングリン』の上演中止(オペラ・コミック座)、フランク『交響的変奏曲』、シャブリエ『グエンドリン』
科学:フロイト、サルペトリーでのシャルコーの講義に出席、パスツール、狂犬病に対するワクチンを発明



≪1886年≫

・1月8日 ワーグナーへの「礼賛」(『ワーグナー評論』)
・4月11日 『ヴォーグ』誌、第1号発行(マラルメの三篇の散文詩「秋の嘆き」、「冬の戦慄」、「未来の現象」とランボーの『イリュミナシオン』の冒頭を掲載)
・6月13日 「おまえの歴史に入り込む・・・」(最初の句点のないソネ、『ヴォーグ』)
・7月 ヴァルヴァンに出発
・9月22日 「ルネ・ギル『語論』への緒言」
・10月 パリに帰る
・11月1日 『独立評論』誌上に「演劇に関する覚書」の連載開始

≪1886年の文化・社会状況≫
政治:ブーランジェ、陸軍大臣に就任
文芸全般:モレアス、象徴派宣言。雑誌『デカダンス』、『サンボリスト』、『デカダン』、『ヴォーグ』、『ヴァロニ−』、『プレイアッド』創刊
<詩>
ラフォルグ『月聖母のまねび』、ランボー『イリュミナシオン』(『ヴォーグ』誌)
<小説>
ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』、ゾラ『制作』
美術:第二回印象派展(ルドン、シニャック、スーラ)、ゴーギャン『若いブルターニュ人』
ルドン『聖アントワーヌの誘惑』、ロップス、『魔性の女達』(バルベー・ドールヴィー)の挿絵、ロダン『接吻』
音楽:サン・サーンス『動物の謝肉祭』、リスト死す。



≪1887年≫

・1月1日 『独立評論』にソネ<三部作>発表
Ecrits pour l'Art誌に『ルネ・ギル「語論」への緒言』
・2月「今日の人物」叢書でヴェルレーヌによってマラルメが紹介される
・3月『独立評論』社による「半獣神の午後」決定版が刊行される
・5月5日 エデン劇場で上演予定のワーグナー『ローエングリン』が中止になる。マラルメはこのことをスキャンダルとみなす(『独立評論』)
・8月12日「香具師の口上」(『芸術とモード』誌)、出版社ヴァニエと和解成立
・秋(?)このころクローデルに最初の手紙を送る
・10月 写真版『詩集』刊行。フェリシアン・ロップスの口絵付(『独立評論』社、47部限定)
・12月 『詩と散文のアルバム』(書肆ヌーヴェル、ブリュッセル、書肆ユニヴェルセル、パリ)、『フランスとべルギーの作家の現代的アンソロジー』の第10分冊
・12月31日 メリー・ローランにソネを送る(「メリー、あまりの暁なしに・・・」)

≪1887年の文化・社会状況≫
政治:ブーランジストの運動はじまる
文芸全般:ラフォルグ死去。バジュ『デカダント流派』
<詩>
ギル『無垢な所作』、カーン『さまよえる宮殿』、メリル『音階』
<小説>
ユイスマンス『停泊』
<演劇>
アントワーヌが自由劇場を旗揚げ
美術:ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの展覧会、ルノワール『水浴する女』、ピサロの点描画
音楽:サティ『ジムノペティ』、フォーレ『レクイエム』



≪1888年≫

・1月10日 ヴェルアーレン、ブリユッセルの出版社ドゥマンをマラルメに紹介する
・1月15日 ヴェルアーレンへの手紙(「公衆の前で一冊の書物の中身によって上演する」ことを仄めかす)
・2月12日 マラルメ、ドゥマンに『エドガー・ポーの詩』、『漆の抽斗』(のち1891年、『パージュ』と改題され出版される)の草稿を送る。
・5月1日 マラルメ訳ホイッスラー『10時』(『独立評論』、フランシス・ヴィエレ・グリファンの協力の下)
・7月 『エドガー・ポーの詩』、ドゥマンより刊行、マネの挿絵つき
・7月23日 『19世紀詩人のアンソロジー』第3巻、ルメールより刊行。マラルメはそこに6篇の詩とコペの覚書を掲載
・7月26日 ヴァルヴァンへ出発
・8月11-25日 エヴァンズ博士とローランの招きでロワイアに滞在
・8月23日 画家のジャン・フランソワ・ラファエリに「街路の典型」の為の詩を書くよう頼まれる
・9月15日 ドゥマンに「記憶」を送る
・10月8日 パリに帰る
・11月1日 B・モリゾ宛書簡、「朗読会」に言及
・11月22日 ドゥマン宛書簡、「朗読会」に言及

≪1888年の文化・社会状況≫
政治:ブーランジストの運動絶頂期
文芸全般:
<詩>
ヴェルレ―ヌ『愛』、ヴェルアーレン『崩壊』
<小説>
ヴァレス『蛮族の眼の下に』、デュジャルダン『月桂樹は切られた』、モーパッサン『ピエールとジャン』、ヴィリエ・ド・リラダン『新・残酷物語』
美術:ナビ派登場、カミーユ・クローデル『ロダンの彫像』、ゴーギャン『ヤコブと天使の戦い』、ゴッホ、アルルへ、ロダン『カレーの市民』、スーラ『パレード』
音楽:ドビュッシー『アラベスク』



≪1889年≫

・2月17日 ベルト・モリゾ宛書簡(1月27日の選挙に際し「(ブーランジェ)将軍に投票した」)
・3月中旬 ラファエリによって描かれた「街路の典型」に付した7篇の詩を含む、『パリの典型』の第7回目の配本
・7月12日 ヴィリエ・ド・リラダン、癌の為の入院
マラルメとユイスマンスは基金を募り、ヴィリエの息子ヴィクトールの将来の為、ヴィリエとその同伴者マリー・ブレジェラスの臨終婚の準備をすすめる(8月14日に挙行)
・7月23日 ヴァルヴァンに出発
・8月19日 ヴィリエ死去。21日葬儀。マラルメとユイスマンスが遺言執行人
・9月7-10日 ロワイアに二度目の滞在。メリーに長大な手紙
・10月上旬 パリに戻る
・10月18日 『漆の抽斗』の挿画を放棄したモネに、マネの『オランピア』の購入募金に参加するよう懇願され、25フランで応じる(1890年2月24日に領収)。

≪1889年の文化・社会状況≫
政治その他:ブーランジェ、パリで当選するも、運動は挫折。パリ万国博覧会(革命100周年)。エッフェル塔完成
文芸全般:バルベー死去。雑誌『ラ・プリュム』、『白色評論』創刊
<詩>
ギル『合理的詩の器楽派の革新的方法』、メーテルランク『温室』、レッテ『夜の鐘』、ヴェルレ―ヌ『平行にて』
<小説>
ブールジェ『弟子』
<演劇>
メーテルランク『マレーヌ王女』
美術:印象派と総合派の展覧会(カフェ・ヴォルピニ)、クロード・モネの展覧会、シャヴァンヌのフレスコ画(ソルボンヌと市庁舎)、ロートレック『ムーラン・ド・ラ・ギャッレットの舞踏会』
哲学:ベルグソン『意識に直接与えられたものについての試論』




≪1890年≫

・ 2月10-19日 ベルギーでヴィリエ・ド・リラダンに関する講演旅行(ブリュッセル、アントワープ、ゲント、リエージュ、ブリュッセル、ブリュージュ)
・ 2月27日 ベルト・モリゾーの家でも講演
・ 5月15日 「ヴィリエ・ド・リラダン」(『今日評論』)
・ 5月24日-6月4日 ヴァルヴァンに滞在。ピエール・ルイスとの交際が始まる
・ 7月13日 マネ家の人々と共にジヴェルニーにモネを訪ねる。
・ 7月16日 テレーズ・ルマニーユがソネ「帖の一葉」を送られたことに感謝
・ 8月初旬 ヴァルヴァンへ出発
・ 10月5日 パリへ戻る
・ 10月20日 ヴァレリーから最初の手紙
・ 11月9日 メリー・ローランのタリュの家が取り壊されれ、新築される。マラルメも引越しと室内装飾を手伝う
・ 11月15日 ロンドンの新聞ワールウインド紙に「ホイッスラーへの私信」

≪1890年の文化・社会状況≫
政治その他:共和国カトリック同盟の結成、最初のメーデーが起こる
文芸全般:『メルキュール・ド・フランス』、『エルミタージュ』、Entretients Politiques et littéraires
<詩>
ギル『作品』、ラフォルグ『最後の詩』、レニエ『古風でロマネスクな詩』、ヴェルアーレン『黒い松明』、ミカエル死す
<演劇>
ポール・フォールの「芸術座」創設。ヴィリエ『アクセル』。メーテルランク『盲人たち』
<小説>
ゾラ『獣人』
美術:セザンヌ『カード遊び』。モーリス・ドニ、ヴェルレーヌの『叡智』の挿画。モネ『睡蓮』。ルドン、ボードレールの『悪の華』の挿画。ゴッホ死す
音楽:フランク死す
哲学:ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』のブルドーによる翻訳



≪1891年≫

・ 1月 ゴーギャンによる肖像画をミルボーに依頼
・ 2月2日 モレアスの『情熱の巡礼』刊行を称える饗宴で座長を務める
・ 2月5日 アンドレ・ジイドから最初の手紙、『アンドレ・ワルテルの手記』が送られる
・ 2月24日 火曜会でのワイルドとマラルメの最初の出会い
・ 3月13日 バンヴィル死去
・ 3月14日 『エコー・ド・パリ』紙によるジュール・ユレの「文学の進展についてのアンケート」に答える
・ 3月19日 芸術座で「不運」の朗読
・ 3月23日 ゴーギャンのお別れ会で乾杯の音頭を取る
・ 3月25日 健康を理由に3ヶ月の休職(亜急性のリュウマチ)。この休職は10月の秋学期開始まで延長される
・ 5日5日 ドゥマンより『パージュ』刊行(ルノワールの口絵)
・ 5月20日 ヴェルレーヌとゴーギャンの資金にする為の芸術座の六度めのスペクタクルの稽古。その後直ちにヴァルヴァンへ
・ 5月24日 ジョゼフ・ルマニーユ死去
・ 7月4日−8月8日 オンフルールのポンソ夫人の家に滞在する為に、ジュヌヴィエーヴが初めて両親から離れる
・ 8月7日 フランシス・ヴィエレ・グリファン宛書簡(「それは〜であるC'est」というのが、一つの終わりのない研究、今も私の手元にある一連の覚書の題名であり、私の精神のもっとも奥まった場所に君臨している言葉に他なりません」)
・ 9月30日 パリに戻る
・ 10月10日 マラルメ、10時間の労働時間短縮を許可される。ルイスに連れられて、ヴァレリーが始めて訪れる
・ 10月14日 ドゥマンから『詩集』の最初の前金を受け取る(このときのタイトルはVers)
・ 10月末 オスカー・ワイルドから『ドリアン・グレーの肖像』を受け取る
・ 11月26日 友人アンリ・ルージョン(10月21日より美術学校校長)の支えにより、国家にホイッスラー『我が母の肖像』を買い取らせる

≪1891年の文化・社会状況≫
政治その他: レオン13世の回勅が社会的クリスチャニスムの基礎を築く
文芸全般: 『情熱の巡礼』の饗宴、モレアスのロマヌス派宣言、ユレ「文学の進展に関するアンケート」
<詩>
ジイド『ナルシス覚書』、ギロー『ピエロ・ナルシス』、モレアス『情熱の巡礼』、ローデンバック『沈黙の支配』、ヴァレリー「ナルシス語る」、ヴェルレーヌ『幸福』
<演劇>
デュジャルダン『アントニア』、メーテルランク『7人の王女』
<小説>
バレス『ベレニスの園』、ユイスマンス『彼方』、ペラダン『両性具有』、シュウォブ『二重の心』
美術:ゴーギャン、タヒチへ出発、モネ『睡蓮』連作、スーラ『サーカス』
音楽:ワグナー、オペラ座で上演



≪1892年≫

・ 3月 『ナショナル・オブザーバー』への執筆開始(まず「フランスにおける詩と音楽」、それを加えて12のクロニックを1893年7月まで)
・ 4月13日 ユージェヌ・マネ(エドワール・マネの弟、ベルト・モリゾーの夫)死す。マラルメが娘ジュリーの後見人になる
・ 7月 マラルメ、ホイッスラーに住所を記した4行詩の刊行を求められるが、計画は挫折する。ドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』の作曲を始める
・ 7月28日-8月24日 マリー、ジュヌビエーヴと共にオンフルールのポンソ夫人の家に滞在
・ 10月5日 パリに帰還
・ 10月6日 テニソン死去。マラルメ、『エコー・ド・パリ』紙にインタヴューを受ける。『ナショナル・オブザーバー』紙の10月29日号のクロニックをテニソンに捧げる(のち、『ディヴァガシオン』所収)
・ 10月中旬 「ヴィリエ・ド・リラダン」がブリュッセルのラコンブレから出版
・ 10月末 ホイッスラーが『詩と散文』の口絵となる肖像画を描く
・ 11月15日 『詩と散文』(ペラン社、ホイッスラーの口絵)
・ 11月27日 リュクサンブール公園のバンヴィルを称える記念碑の為の演説
・ 12月3日 ウイリアムズ・ボナパルト・ワイズ死去
・ 12月6日 ルコント・ド・リールに代わって、マラルメが『ラ・プリュム』紙の第6回饗宴を主宰

≪1892年の文化・社会状況≫
政治その他:フランスでアナーキストによるテロ続発。ラヴァショル逮捕。パナマ事件
文芸全般: ルナン死去。薔薇十字団の最初のサロン(デュラン・リュエル画廊)
<詩>ギル『作品』第二巻、フォンテナス『幻想的な牧人』、ジイド『アンドレ・ワルテルの詩』、ヴィエレ・グリファン『新しき白鳥』
<演劇>
クローデル『黄金の頭』、デュジャルダン『過去の騎士』、メーテルランク『ペレアスとメリザンド』、ロイ・フラー、パリで成功
<小説>
ローデンバック『死の都ブリュージュ』、シュウォブ『黄金の仮面の王』
美術:セザンヌ『トランプ遊び』
音楽:
ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、オリエ『象徴主義絵画』



≪1893年≫

・ 2月 『ラ・プリュム』紙の第7回饗宴に際し、後に「挨拶」となる詩を朗読
・ 3月24日 風邪を引き、4月10日までヴァルヴァンへ
・ 4月13日 ヴェルレーヌの主宰する『ラ・プリュム』紙の第8回饗宴に参加
・ 5月17日 『ペレアスとメリザンド』の初演に出席。同じころ、『ワルキューレ』も観劇(初日は5月12日)。このニ作品について、『ナショナル・オブザーバー』(6月10日号)に書く
・ 6月17日 『竪琴そのもの』第三分冊の死後出版を記念するユーゴーのための饗宴に出席
・ 7月6日 モーパッサン死去。マラルメ、葬儀に出席し、『ナショナル・オブザーバー』同月22日号のクロニック(「弔い」)を捧げる
・ 7月15日 『詩と散文』第二版
・ 7月28日 文部大臣に退職が認められるかを打診。10月の休暇を申請。
・ 8月-9月 『インドの物語』の仕事を進める。これはマリー・シュメールの『古代インドの説話と伝説』の書き直し。メリー・ローランの友人、エドモン・フルニエの注文
・ 10月14日 エレディアの主宰する『ラ・プリュム』紙の第10回饗宴に参加
・ 11月4日 マラルメの退職が許可される。1894年1月1日より有効。1200フランの年金支給

≪1893年の文化・社会状況≫
政治その他:ヴァイアンが下院議事堂を爆破。
文芸全般: モーパッサン、テーヌ死去
<詩>
ギル『作品』第三巻、エレディア『戦勝碑』、サマン『王女の庭で』、サン・ポル・ルー『聖体行列の安置台』
<演劇>
リュネ・ポーの「制作座」創立、クローデル『都市』、ワイルド『サロメ』
<小説>
ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』
美術:ドニ『聖なる森の美神たち』、モネ『ルーアン大聖堂』連作
音楽:ドビュッシー『選ばれた乙女』、ワーグナー『ワルキューレ』(パリ・オペラ座)



≪1894年≫

・ 2月24日 英国へ出発
・ 3月1日、2日 講演『音楽と文芸』(オックスフォードとケンブリッジ)
・ 4月 『音楽と文芸』(『白色評論』)
・ 5月15日 「密雲の崩れんばかりに覆う空・・・」(『文学の基金』)
・ 6月末 マリー、ジュヌヴィエーヴとオンフルールに出発
・ 7月17日 ルコント・ド・リール死去。マラルメはボードレールの記念碑準備委員会の長を引き継ぐ
・ 8月8日 30人裁判の機に、フェリックス・フェネオンの証人として出廷(アナーキストのテロ行為に関して)
・ 8月17日 『ル・フィガロ』に「文学基金」の記事
・ 10月 「有益なる遠出」(『白色評論』)。『音楽と文芸』(ペラン社)
・ 10月22日 パリに帰還
・ 11月12日 ドゥマンに『詩集』の雛型を送る
・ 12月15日 「郵便つれづれ」(『ザ・チャップ・ブック』、シカゴ)
・ 12月22日 ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』の最初の演奏

≪1894年の文化・社会状況≫
政治その他:大統領サディ・カルノ殺される。30人裁判。ドレフュス訴追
文芸全般: ルコント・ド・リール死去。ヴェルレーヌ「詩王」に選出
<詩>
マリ・クリシンカ『彷徨える喜び』、ヴェルレーヌ『エピグラム』
<小説>
ヴァレリー『レオナルド・ダ・ビンチの方法序説』
演劇:デュジャルダン『アントニアの終焉』、メーテルランク『室内』、『タンタジールの死』、アントワーヌの「自由劇場」解散
音楽:スコラ・カントルム創設



≪1895年≫

・ 1月1日 「シャルル・ボードレールの墓」(『ラ・プリュム』)
・ 1月15日 「ピュヴィ・ド・シャバンヌへの礼賛」(同上)
・ 2月1日 最初の「一つの主題をめぐる変奏」(『白色評論』)。最後は11月1日号
・ 2月2日 コレージュ・ロランの聖シャルルマーニュの饗宴。マラルメは祝杯の辞(La Revue scolaire、2月7日)
・ 2月18日 ゴーギャンの二度目の競売
・ 3月2日 ベルト・モリゾー死去
・ 6月5日 ヴァルヴァンへ出発
・ 8月3日 「全ての魂は縮められて・・・」(『ル・フィガロ』、自由詩についてのアンケートの中で)
・ 10月26日 パリに帰還。その日、文部大臣ポワンカレから年金が10月1日から1800フランに引き上げられるとの達し。
・ 12月1日 オクターヴ・ミルボー宛書簡(「時たまあなたの手を握るという与えられた機会の他に、世界の解明というものがもしもあるならば、それは40ページになる雑誌の記事となるでしょう」)

≪1895年の文化・社会状況≫
政治その他:フェリックス・フォール、大統領に選出。CGT創立。大規模なスト。
文芸全般: ベルト・モリゾー死去。ヴィズヴァ『我が師たち』
<詩>
ルイス『ビリティスの歌』
<小説>
ヴァレリー『ムッシュー・テストと劇場で』、ジイド『パリュウド』
<美術>
ロダン『カレーの市民』
音楽:ワーグナー『タンホイザー』(パリ・オペラ座)、シュレ『リヒャルト・ワーグナー、その作品と思想』
科学その他:リュミエール兄弟による最初の映画



≪1896年≫

・ 1月8日 ヴェルレーヌ死去。10日の葬儀でマラルメが弔辞(『ラ・プリュム』紙2月1日号に掲載)
・ 1月27日 ヴェルレーヌの後をついで、マラルメが「詩王」に選出される
・ 2月10日 ソネ「夫人よ、激しき情熱に燃えることなく・・・」(『ル・フィガロ』)
・ 2月22日 ブリュッセルのヴェルアーレンの饗宴に欠席。代わりに祝辞を送る
・ 3月5日 ベルト・モリゾーの展覧会(デュラン・リュエル画廊)でカタログの序文
・ 3月8日 五編の「扇」(『オ・カルチェ・ラタン』紙)
・ 3月15日 『ラ・プリュム』紙がマラルメの小特集
・ 5月6日 ヴァルヴァンに出発。11月末まで滞在
・ 5月15日 「アルチュール・ランボー」(ハリソン・ローズへの手紙、『ザ・チャップ・ブック』、シカゴ)
・ 5月22日 ヴェルレーヌ記念碑委員会の長に就任
・ 9月1日 「文芸の中の神秘」(『白色評論』、7月15日付の同雑誌におけるプルーストの「晦渋さに抗して」への返答)
・ 9月-11月 『デイヴァガシオン』の校正
・ 10月 アンドレ・リシュテンベルジェが自分の国際雑誌『コスモポリス』への協力を求める
・ 11月18日 デュジャルダンの結婚の証人
・ 11月28日 パリに帰還
・ 12月14日 アンブロワーズ・ヴォラールがルドンの版画を使って何か出版してくれないかと打診(「世界で最も美しい版にするため、この本に必要なあらゆる経費をかける」)。この計画自体は実現しないが、『コスモポリス』版の『賽の一振り』へと結実する。

≪1896年の文化・社会状況≫
文芸全般:ヴェルレーヌ、エドモン・ド・ゴンクール死去。
<詩>
ポール・フォール『バラード』、メーテルランク『12の歌』、レッテ『ざわついた森』、ローデンバック『閉ざされた生活』
<小説・批評>
シュウォブ『想像的生活』、グールモン『仮面の書』、メーテルランク『貧者の宝』、プルースト「サント・ブーブに抗して」
<演劇>
ジャリ『ユビュ王』初演(制作座)
美術
:モロー『ジュピターとセレメ』
音楽:ショーソン『温室』(原作メーテルランク)、ラヴェル『聖女』(マラルメの詩)
哲学・科学:ベルグソン『物質と記憶』、マルコーニの最初のラジオ放送



≪1897年≫

・ 1月1日 「ヴェルレーヌの墓」(『白色評論』)
・ 1月15日 『ディヴァガシオン』、シャルパンティエから刊行。同日、バティニョール墓地でヴェルレーヌ一周忌を偲ぶ言葉を述べる
・ 2月2日 マラルメを称える火曜会の食事会
・ 4月3日 オデオン座での土曜詩人朗読会が始まる
・ 4月21日 レイナルド・アーンの演奏会で、マラルメの「緒言」がマルグリット・モレノによって読まれる
・ 4月22日 マンデスを称える夜会で、乾杯の辞
・ 4月24日 ヴァルヴァンに出発。5月2-8日、5月31日-6月3日のパリ滞在を除いて、11月上旬まで滞在
・ 5月4日 「賽の一振り」(『コスモポリス』)
・ 5月5日 ヴォラールからルドンによって挿画が加えられ、フィルマン=ディドで印刷されるはずの「賽の一振り」の決定版のための内金250フランを受け取る
・ 5月15日−18日 メリー・ローランのヴァルヴァン滞在
・ 6月15日 エドワルド・ムンクの肖像画にお礼
・ 7月2日 「賽の一振り」の初校
・ 9月14日 ヴォラールはヴュイヤールが挿画を描く『エロディアード』の豪華版の実現を希望する
・ 10月20日 ヴァルヴァンへ訪問したホイッスラーがジュヌヴィエーヴの肖像を描く
・ 11月7日 パリへ帰還
・ 11月15日 エヴァンス博士死去
・ 12月16日 ドーデ死去。マラルメは20日の葬儀に出席

≪1897年の文化・社会状況≫
政治その他:ドレフュス事件の始まり
文芸全般:
<詩>ギル『作品』第3巻、カーン『映像の書』、メリル『詩1887−1897』、レニエ『田舎風で神聖なる遊戯』、ヴィエレ・グリファン『生の輝き』
<小説>バレス『根こぎにされた人々』、ジイド『地の糧』
美術:ゴーギャン『ノア・ノア』(『白色評論』)、『我々はどこからきたのか。我々は何なのか。我々はどこに行くのか』
音楽:ドビュッシー『ビリティスの歌』



≪1898年≫

・ 1月13日 ゾラが『オーロール』紙に「私は弾劾する」を掲載。マラルメはメリー・ローラン宛に「私の考えでは、彼は勇敢な人間として行動を起こした」と書く。2月10日の手紙では「驚くべき行為」と書く。
・ 2月23日 マラルメはゾラに対し、その行動に対する共感を示す手紙を送る
・ 4月16日 バスコ・ダ・ガマへのソネ(「旅立っていく唯一の思い出に・・・」)を含む「思い出のアルバム」の刊行
・ 4月22日 マラルメ、単独でヴァルヴァンへ出発(6月2日にマリーとジュヌヴィエ-ヴを探しにパリに来る)
・ 5月10日 死の時まで関心を示す『エロディアード』に取り掛かる
・ 5月11日 バルザックのロダン像が文芸家協会から拒否される(「私は彼らの仲間になってまだ短いというものの、怒りを鎮められず、恥ずべき気分を感じる」、5月14日メリー宛)
・ 7月14日 ヴァレリーのヴァルヴァンへの最後の訪問
・ 8月17日 20歳の理想についてのアンケートに答える(8月29日の『フィガロ』に掲載)
・ 9月9日 マラルメ死す。『エロディアード』は未完成のまま残され、『詩集』は1899年の死後出版となる。マリーとジュヌヴィエーヴ宛の遺言にはこう書かれている:「信じておくれ、それは非常に美しいものになるはずだったのだ」

≪1898年の文化・社会状況≫
政治その他:ドレフュス事件がフランス社会を二分する。アクション・フランセーズ創設。人権擁護連盟発足
文芸全般:
<詩>ジャム『夜明けの鐘から夕べの鐘へ』
<小説と批評>ユイスマンス『大伽藍』、モークレール『死者の太陽』、グールモン『仮面の書』、ローデンバック死去
美術:セザンヌ『水浴する女達』、ピュヴィ・ド・シャバンヌ『ルテチアを見守るジュヌヴィエーヴ』、ピカソのパリ到着、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、モロー死去
科学:キュリー夫妻によるラジウムの発見


 

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