翻訳 マラルメ『演劇に関する覚書 (訳:坂巻 康司)

これは、関西マラルメ研究会の読書会で2003年7月から読み続けているステファヌ・マラルメ『演劇に関する覚書』の翻訳の完成部分を掲載したものであ る。読書会の参加者である中畑寛之、足立和彦、藤原曜、廣田大地の各氏の意見をまとめ、坂巻が訳文として完成させた。なお、『マラルメ全集』第二巻(筑摩 書房、1989年)に収められたの渡辺守章先生の『芝居鉛筆書き』の御訳も随時参考させていただいている。このコーナーは今後、随時更新される予定であ る。(2005/8/23、坂巻記)

 第2回

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 第7回




マラルメ「演劇に関する覚書」第2回(「独立評論」1886年12月)

冬はバレエで幕を開ける。それは地味でないわけではない。日程を気に掛けるよりも、この崇高なジャンルへの偏愛について、私は長々と弁じだててみよう。

舞踊だけが、その旋回する動作のゆえに、現実の空間、あるいは一つの舞台を必要とするように思われる。

厳密に言えば、あらゆる作品を喚起するためには一冊の本があれば充分である。様々な人格に守られて、おのおのは自分自身の中に、ピルエットが演じられている時に、そうではないものを演じることが出来るからだ。

そういうわけで、ある非凡な例をとってみるならば、数年来、ベック氏の劇『賢夫人たち』の読書の記憶が持続する賛嘆の思いと、昨日の再演のあいだに私は殆 んど差異を認めない。女優は精神的なテクストを目覚めさせるか、距離をとった私の読み手のヴィジョンなのか、この稀な作者の他の作品のように、これこそが 昔ながらの演劇の様式の中での、近代的な傑作である。「フランス座」のものである声と非常に上手く調和した声に乗って、文は思慮あるメロディを歌うが、そ れは不動のパンフレットの中にある書かれたものであるとみても同じことだ。私がかつて味わったいかなる驚きも、失望もなかった。しかし、そこにあるのは、 次の事を確認する愛好家の悦びである。すなわち、真実あるいは感情を、言葉の古い意味で、殆んど抽象的な、あるいは単に文学的な正確さによって、実際に書 き表すことは、フットランプにある確かな生を見つけることである。

舞踊に関して、新たな美学の何らかの特徴を一刻も早く集めたいとするなら、少なくとも、次のことを気づくことなしに、別の仕方でのこの完璧な行為をそのま まにしておくことはないだろう。つまり、この行為は、えも言われぬように平均的ですらあり、むしろ世俗的な虚構である全ての産物がそうであるように、その 内部に、それ自身で、必然的なポエジーの力強い感触を持っているということ。中断や繰返しといった会話の器楽的な振る舞いの中で、室内楽による、いくらか 中性的な響きのしなやかな協奏曲の演奏を思い起こさせる、あらゆる技術がある。(私は微笑してしまうけれども)そこに象徴があるからだ。ブルジョワ的で、 魅力的で、真実なアレゴリーでなければ、―作品を選んで、観てごらんなさい―それと婚姻をすることの出来る人間にとって、未来の成熟の紋章的なタブローに よる大団円を急がせながら、かつての美しい子供たちの飾りをした若い娘のこの出現はなんだというのか。

コルナルバ嬢は私を魅惑する。彼女は着物を脱いだかのように踊るのだ。つまり、薄衣の舞い上がり、まどろんだ一つの現前によって、飛翔と着地に与えられた 見せかけの助けもなしに、大気の中に呼び出された彼女は、その身体のしなやかな緊張というイタリア式のやり方で、自らを支えているように思える。

エデン劇場の最近の出し物に残されたすべての記憶がそうなのではない。他の詩情を欠いているからだ。というのも、反対に、人々がこう呼ぶものがあまたある からだ。ドレスと礼服とよく知られた言葉で着飾った登場人物との付き合いからひとたび開放された愛らしい精神の濫用がそれだ。魅惑は台本のページの中だけ にあり、それは上演には現れていない。天体そのものは、余程の理由と瞑想上の重大さがない限り、めったに掻き乱してはならないと私は信じるのだが(ここで は、説明によれば、確かに愛の神は天体を動かし、それを寄せ集めている)、私がページをめくり、理解したのは、星星が集まっていて、夜の欠如したアルファ ベットの中で輝いている意味の気高く、首尾一貫しない不在がヴィヴィアーヌという誘惑的な名をなぞる事に同意するだろう、ということだ。それは妖精の名で あり、詩のタイトルでもあり、舞台奥の青い布の上の星々を表わす幾つかのピンで書かれている。というのもそれは、エトワール(何と上手く名づけていること だろう)の周りに星座の理想的な踊りを形作る群舞の踊り手では全くないだろうからである。全くそうではない。そこから人々は、どんな世界だかお分かりだろ うが、芸術の破滅の淵へとまっすぐに出発したのだ。雪もまたそうであり、雪のひとひらが白い群舞の往復においても、あるいはワルツの調子で、活気を取り戻 すのでない。花々の春らしい開花もない。つまり、実際、詩であり、あるいは活性化された自然であるすべてのものがテクストから出て来るのは、ちゃちな仕掛 けのある装置とモスリンのような澱と火の輝かしい沈滞のなかで、凝り固まる為だけである。舞台での行為に於いてもまた、妖精自身の持続的な旋回と八字型踊 りとは別のものにより描かれる魔法の輪を私は見た。創造の刺激的な細部は山ほどあるが、いかなるものも、その返礼に、明白で正常な機能の重要さに辿り着く ことなしにである。とりわけ前述の星の場合であるが、一層の冒険心を持って、壮麗な類比と同時に、定められた法に従う誘惑を人々が無視したことがかつて あったか。この法が望むのは、抜きん出た第一舞踊手がその絶えざる偏在の中で、おのおののグループの体勢の稼動する総合であるべきということである。つま り、おのおののグループが、部分として、この総合を果てしなく細分させるということだ。第二舞踊手においても、また全体に於いても、このような相互性から 生じるのは踊る存在の非人称的様態であり、それは紋章以外の何ものでもなく、何者かでは決してない。

バレエに関して主張すべき判断、あるいは公理!

踊り子は踊る女ではない、ということ。それは次の並置された動機による。すなわち彼女は女ではなく、我らの形態、花、壺、炎などの分析された側面の一つを 要約する初歩的な力であり、また、縮約と跳躍の奇跡により、その身体的エクリチュールによって、対話的であり、また記述的である散文ならば、表現するなら ば文で書いて、数段落は必要であろうものをほのめかすことにより、彼女は踊ることをしない。すなわち、書き手というあらゆる装置から開放された詩篇なの だ。

伝説のあとに寓話が来ると言っても、古典主義的な趣味や最高天の機械仕掛けの理解するものではなく、我々の性格と様式から動物の単純な形態への転移という 限定された意味によってである。安易な演技は登場人物というものの助けを借りて寓話作家によって恋に悩んだ鳥類に委ねられた人間の感情を再−翻訳する。そ の登場人物が、意識的言語が演劇において発話されることが許される者達よりも、飛び跳ねたり、押し黙ったりするように一層本能的であることは事実である。 ダンスは翼である。そこで問題になるのは鳥であり、未来への出発であり、矢のような震える帰還である。『二羽の鳩』の上演に立ち会わないものに、主題の力 のお陰で、バレエの根本的動機の必然的な一つながりが立ち現れてくる。これらの類似の発見者にとっては想像力の努力はさして困難なものではないと思われる が、凡庸ですらある等価物を見いだすということも何らかの事柄なのであり、芸術に於いては、結果が重要なのである。欺瞞である!第一幕において、主役たち がマイムをし、踊る人間の姿として森の鳩が美しく現れていることを除けば。

「二羽の鳩が狂おしく愛し合っていた」

2羽か、幾羽の鳩が、組みになって、垣間見られた屋根の上に、海と同じように、テッサリア風の農場の半円形を通して、生き生きとしており、描かれるよりも 良い形で舞台の奥行きに収まっており、良い趣味を見せている。恋人達の一人が相手にそれらの鳩を見せ、続いて自分自身を、それをまねた最初の言語として、 それゆえに正確な言語として示す。恋人たちの姿勢が鳩舎の影響から、ついばんだり、飛び跳ねたり、失神したりする仕草を段々と受け入れるので、この軽やか な好色性の侵入が、強烈に似た形で、恋人達の上に滑ってくるのが見えてくる。子供達は、ここでは鳥達に扮し、あるいは、反対に小鳥なのだ。常に、或いはそ の時点から、彼や彼らが表明しなければならない二重の演技の交換というものを理解しようとするならば。それは恐らく、性的な差異の冒険的な試みなのであ る!というのも、わたしは補助薬であり精神性そのものの楽園である、バレエがほのめかすいかなる考察にも達することはないであろう。この無垢な導入の後、 演技者の完璧さ以外は何も起こらないだけになおさらである。一瞬の視線の背後訓練に値するものは何もないのだ・・・。最初の優美なモチーフから出来する取 るに足らない虚しさに指を突っ込むことはうんざりすることだ。ここにあるのは放浪者の逃亡であり、それは少なくとも、優美に踊り子を床に結びつける、この 種の恍惚的な消え入ることの不能性を引き起こす。そして、同じ光景の呼びかけ、故郷での、帰還の印象的で魅力的な時間がやって来る。その前に、すべてのも のが嵐のもとに回転を始める祭りが一度挿入され、引き裂かれた二人、赦す女と逃げた男が再び結ばれる場面が来る。それは・・・、お分かりだと思うが、最後 の歓喜の舞踊の頌歌であり、そこでは、彼らの酔いしれた喜びの源泉にまで、旅の必然のために、婚約者たちの間におかれた空間が減じるのである。それ は・・・、紳士淑女の皆さん、あたかも事態があなた方の家で起こっているかのように、くちづけが芸術に無関心を示すがごとく、あらゆるバレエは接吻という この行為から聖別化された神秘的な解釈でしかない。単に、このように考えることは、フルートの表現によって、その視覚的な様態の愚かしさを思い起こさせる ことであり、結局、オペラ座の肘掛け椅子に対する尊大さによって表象しなければならないのは平凡な同時代人なのである。

飛翔の習慣化された体勢と身体動作の効果の間の、はっきりと認められた関係を除いて、詐術がないわけでもない、寓話からバレエへの移行が残したものはある 愛の物語である。ディヴェルティスマンの間奏曲(断片とつぎはぎ以外の何ものでもない)において並ぶもののない名手である素晴らしいモーリ嬢は、焦点の定 まらぬほのめかしを絶えず描きながら、困惑し、かつ純粋である動物性を混ぜたその予見の力によって、主題を要約することが肝要なのだ。同様に、パの前に、 二本指でそのスカートの震える襞を招き、観念に向かって飛翔する翼のいらだちを模倣することも。



一つの芸術が舞台を占めている。ドラマならば物語的なものだが、バレエでは別のものであり、紋章的なものだ。結びつけるべきだが、混同してはならない。黙 劇とダンスという、無理やり近づければ突然反発しあう、相互に沈黙を守り通そうとする二つの態度を結び合わせなければならないのは、直ちにという訳では全 くなく、共通の扱いにかなったものである。ある例がこの言葉を明示する。つい先だっての場合ではなく、ある自己同一的な本質を獲得する為に、二人の演技者 において、踊り子のとなりにマイムを選ぶことを想像したとする。それはあまりにも異なるものを付き合わせることだ。もしも片方が鳩ならば、もう片方はよく 分からないが切れ端になるだろう。すくなくとも、極めて賢明にも、エデン劇場では、排他的な芸術の二つの様態を使いながら、実験的な演劇人がこの反目関係 を主題としていた。既に大人であり、まだ子供である、二つの世界に属しているその主人公において、王の絨毯の上で、彼に向かってさえ歩く女と、その唯一の 飛翔と原始的で妖精でもあるが故にいとしい女との対立が設置されている。接触を受けたり、対立したりするおのおのの演劇ジャンルのはっきりとした特徴は、 その枠組みに不調和なものを使用する作品を注文することにある。そこから残るものは、伝達の手段を見つけることになる。台本作家は普通は、パによって自ら を表現する踊り子が、他の雄弁術、身振りすらも理解していないのだということを知らないのだ。



次のように語る天才は別だ。「ダンスは律動的跳躍によって、気まぐれ(奇想)を描きだす―これこそが、その数により、あらゆる幻想の簡潔な幾つかの方程式 である―というのも、最も過剰な動性あるいはその真の発展の中での人間的な形態は、それらを踏み越えることが出来ないからである。それは、私は知っている が、観念の視覚的形態化であるから」一まとまりの振付を一瞥してみると良い!この方法がバレエを作り出すのにふさわしいような人はどこにもいない。私は現 代人の精神の展開がどのようなものか知っている。自らを幻惑的に生み出す能力を持つ、彼らにおいてもまたそうである。必要なのは、彼らに対して、よく分か らぬ非人称的な、あるいは閃光を放つ絶対的な視線に取って代わらせることだ。数年来、エデン劇場の踊り子たちが、白粉の極度に肉感的な白さに電気照明の生 々しさを溶け合わせつつ、可能なあらゆる生の彼方に退いた高貴な存在を作り上げている閃光のように。

想像力の唯一の訓練は、ダンスの行なわれる場にいつも訪れる時間に、なんらかの予め予想される狙いも持たず、おのののパ、それぞれ非常に異なった姿勢であ る、ポワント、タクテ、アロンジェ、或いはバロンを前にして、辛抱強く、受動的に自らに次のように問うことに存するだろう。「これは何を意味するか」ある いはさらに言えば、霊感によってそれを読むことである。突然、ひとは全くの、しかし適合した夢幻の中で操作をすることだろう。蒸気のようで、はっきりと広 がりがあり、または制限されている。このような仕方だけによって、その回路の中に夢幻を閉じ込め、フーガによって、その職業の遊戯に見を捧げている文字化 されないバレリーナはそれを運び去る。そうなのだ、彼女こそ(とても場違いな観客である友よ、君は劇場の中で我を忘れることだろう)君が従順にもその無意 識的に晒された足元にその身を沈めさえすればよい存在なのだ。その青白く、幻覚を呼ぶ繻子のトーシューズの演技が奪い去り、地方の視覚性の中に投げ込むバ ラのように。何よりも<君の詩的な本能>の花は明晰化されることと、潜在的な数千もの想像力の真の日の元にあること以外は何も待ち望まない。そのとき、そ の微笑が遅れることなく秘密を注ぎ込む、ある交流によって、彼女が常に残る最後の薄布を通して君にもたらすのは、君の概念の裸形性であり、彼女がそうであ る象徴という仕方で、君のヴィジョンを静かに描くであろう。

ステファヌ・マラルメ



マラルメ「演劇に関する覚書」第3回(「独立評論」1887年1月)

ここで手短な挿入文を。

演劇は高級な本質のものである。

そうでなければ、原理に従って定着するために、神の権威や群衆の完全な同意を必要とする(演劇という)祭祀を司る逃げ腰な外勤司祭として、我々はこの覚書をこの祭祀にいつまでも献呈し続けるだろうか。

いかなる詩人も魂の遊戯をこのように明らかにすることに対して自分が無関係であると信じることは出来なかった。そのため、時を経た昔からある義務により、 批評家の肘掛け椅子の緋色の紋章を背中に描くことを承知したり、或いは非常に奇妙な仕方で、叙情的な流たくの地の奥底から、自分の宮殿で起こっていること をすぐにも見に行けと命じられたりする。

かつてと今では態度が異なる。

神聖なる場所にこれ見よがしに歩き回る怪物や凡庸さの直接的で熱狂的な勝利のまえに身をおいて、疲れきったその眼差しに、盲目になることを 望むがごとくに、黒いオペラグラスを当てているゴーチエを私は愛する。「これはあまりに粗雑で・・・卑俗な芸術だ。」幕の前で彼はこう呟いた。しかし、嫌 悪感のために、自分の本拠地で見者の特権を放棄することは彼にふさわしくなかったので、これまた皮肉な次の言葉も続いた。「ヴォードヴィルだけがありさえ すれば良いだろう。 時折、幾らか変化がつけられるだろうから。」<神秘劇>によって<ヴォードヴィル>に取って代わらせること。それは、常に再び始まる 年月の循環と平行して自ら展開するそれ自体多様な四部作であり、テクストはそれ自体では法のように不滅のものだということを主張したまえ。これでほぼ全て である。

その最後の驚愕においてのように、身体と歌の驚異の逆説的な輝きによって飾られた怪物の細工や張りぼてが決定的な手足に到るまで崇高にも音を立てて破れる のが聞こえる現在、また、彼等しか存在していないという保証を伝える、さらに悪く陰険な想像力によって、舞台上にいるのは観客と同じ人間達でありつづけて いる現在、偽りの純真さから正面からやって来る敵を扱うことを避け、また、それによってその敵に取って代わることが褒めそやされることになるものを敵に教 えることも避け(というのも、イデーの新しいヴィジヨンは、既にバレエがそうなっているように、敵はそれを否定するために、覆いをかけるだろうからだ)、 まさにそれら全ての愚劣さを責め苛むことが出来るには、透徹した視線をひとつ、こちらやあちらの危なっかしい点に投げかけるだけでよい。それ以上を望む と、半分だけ公にされるや否や押し黙る、言い分の神秘の中に横たわる力を失うことになる。そこには思考が潜んでいるのだが、しかし、時代が我々にそれを堕 落したものと見せるだろうから、崇高な自然のひとつの場をおぞましいと布告することになるのか。いいや、そうではない。私はそこにかつて美しかったものへ の哀惜のもとに、あまりにも豊かなものを感じ、単に偉大さをほのめかすことを冒涜的であるとは感じないだろう。

我らの唯一の壮麗なものである舞台は、詩人によって封印された諸芸術の競合が、私の考えでは、宗教的で公的な何らかの性格を付与している。もしもこれらの 言葉に意味があるとすればだが、終わりつつある世紀は、このように理解された舞台のことを気にかけていないと私は断ずる。そして、聖なるものを作り上げる のに必要な全てのものの奇跡的な集合体は、人間の洞察力というものがなければ、何ほどのものでもないだろうということも。

何と無邪気な!私は虚しくも執着する。ここにその場を作るためのように、精神と結びついた諸芸術の革新について熟考しながら・・・。小説というものを、こ のジャンルにあまりにも美しい変化をもたらした巨匠達の力の元に、私は感嘆の念なしには理解しえなかった(かつてその美学を決定することが問題であった時 である)、すなわち、小説だけが、芸術から、まずは舞台上で、他の何にもまして行動することを用心しているかのような、悲惨で無にも等しい近代的登場人物 の陥入を取り去っていることである。

何としたことか。完璧な書き物は、冒険への最低限の仄めかしをも退け、記憶の裏箔についてのその繊細な喚起に満足を覚えるのだ。永遠の亡霊にして生の息吹 でもある姿である、この素晴らしい『シェリー』がそうであるように。それは現在において、直接的で外在的なものが何も起きないということであり、その現在 は隠された形で、より奇妙な下着を被うように作動している。もしも我々の外在的な行動が、印刷された紙葉の幕の上で、不快な思いをさせるとしたら、その無 償の妨害の中で立ちあがる物質性とも言うべき舞台上であれば、なおさら強い理由をもつ。そうなのだ、書物あるいはある典型について書物がそうなるこのモノ グラフィーがここでは充分なのだ(小箱のような紙葉の折り重なりは、野蛮な空間に対し繊細さを守りながら、おのれ自身の中に存在を無限かつ親密に折りたた んでいる)。そこで使われる非常に新しい技法は、希薄化という点では、生が持つ隠れたそして拡散した性格と似ている。精神的なある操作によってであり、他 のものではなく、読者たる私は、ランプの外で、私の夢の源泉の上に傾けられたはっきりとした顔貌に幻滅することなしに、このような顔つきを抽象化すること に専心する。言葉へと還元された顔の輪郭、文の何らかの同一の配置に席を譲った物腰。これら全ての理想的な結果は、私の高貴な悦楽の為に達せられるが、観 客としてオデオン座に見に行かなければならぬセルニー嬢の現実というものにはたじろぐ。私のように、冬ごとに、ゴンクール氏の精妙で胸を抉るかのような作 品の一つ『ルネ・モープラン』を開くのを好まないならば。というのも、想像してくれたまえ。言葉が長く引き伸ばされ、普通の拍子よりも最も遠い所に、現代 の文藝の王子の一人にふさわしい一つの帰結を後退させているのもせよ、尊敬ゆえに長々と引き伸ばされた巧みな言葉がめざしているのは、私のここでの共作者 であるセアール氏が友愛に溢れた寛容さに導かれつつ、傑作から行なったあまりにも興味深く、巧みで殆んど独創的な翻案である。この作家の輝かしい作品が告 げている真実を、小声でつぶやくのは、安易で趣味に欠けているので、次の訂正をしておく。つまり。私が主張しているのは、演劇的な観点からと言うよりも、 単に恐らくより粗野な環境のためである、文学的才能の総合のためである。それをもしも舞台的にでさえ作り直すとしても、分析という繊細でつかの間の方法に よって事実からそれを引き出した後である。

そして・・・そして・・・私は世界の中に運び込まれてさえいるある詩人がもっている雰囲気と同じ、ある知覚について語る。詩人が、稽古中の俳優に無理やり 強調されている存在の仕方、発話の仕方と、生命の捉えどころのない性格との間の、充分で何らかの関係に留まるのならば、答えてくれたまえ。因襲とは何ぞ や。そしてあなたは劇場に、あるサロンよりも、より本当らしさをもって、あなたの夢想の楽園を植え付けるであろう。

形象的には、このように全てが過ぎる。喜劇に於いてすらそうである。ランプが真実の隠喩的な閃光に適合した、簡潔な舞台の時代から。

ひと月かそこらの間隔で、フランス座の今も続く成功について語るならば、『スカパンの老女』は、例えば、驚くべき単純な効果が私に取り付く。彼らの叫びや 罪にだまされやすい人にとって、それはどこにもない場所への、しかし最後の手段として完遂された、獰猛さを伴った、全てのものから逃れるものの逃走であ る。その超自然的な交流と、単に自らを守ろうとするだけの良くない無邪気さを持つところの高級娼婦(*)。曖昧さと魅惑である。人は直ちに自問自答するだ ろう。もしもこれがある事実の粗野な上演だとしたら、人がそこに見るのはある事実の感覚の焦点化なのかと。鋭敏な詩人は、擬古趣味から、ヴィジョンに富ん でいる。それは、恐らく逃走よりも下位のもので、それは私が唯一のものと見なすものだが、自らを押し付けてくる。そこでもここでも、それを完璧なものにす るために私が引用したいのは、高く舞い上がった笑い声のように展開していく伴奏とくだくだしい言葉である。しかし、私は確かな記憶を欠いている。良く響く 声で、男らしく、リシュパン氏によって放たれる韻文は、厳密に演劇的に誘惑する。イメージのレトリックと正確に本能的な崇高な語り口の混合物によって、そ の韻文は舞台装置であるところの光の下に描かれたヴェールの景色に適合し、また、俳優であるところの自然の楽器とも適合している。これら二つは互いに芸術 の今の状態を構成している。

素晴らしい!これは愛好家の祝祭だ。昔日へのあからさまに寄りかかることによって、何よりもうぶなものである。というのも、お聞きにならないであろうか。 そのあいだにも、ほんの遠からぬところでも、音楽的な奔流で洗い流されている「寺院」を。私が驚いているその前で、途絶えることのない河に押し流された栄 光と悲しみの洪水とともにオーケストラが作り上げ、踊り子たちは蘇っているとはいえ祝祭の準備にはまだ目に見えるものではないのだが、それは私には留ま り、そして崇高な、動き行く泡のように思われる。

ステファヌ・マラルメ
  
(*)第三幕 ラファの役



マラルメ「演劇に関する覚書」第4回(「独立評論」1887年2月)

<芸術>というこの至高なものにとっては空位時代である時期に、そこでは我らの時代が低迷しているのだが、一方、天才は見極めようとしてい る。何を?まさに演劇的な力の説明されない侵略的な流れ、つまり、黙劇、大道芸、ダンス、と純粋なアクロバット以外の何ものでもない。彼は人々が現れ、生 き、あるいは都市に滞在することを無しで済ますことはない。それは見かけの上では、しばしば見世物に行くという意図だけを保証している現象なのだ。

舞台は[人々が]共に享受する喜びの明白な中心である。それゆえよく考えてみれば、それは人々が世界の中で偉大さについて熟考する神秘劇についての荘厳な 序曲である。それはまた、理想を持った市民が、ある国家に対して社会的な価値の下落の補償として要求する権利があるのと同じことである。

困惑していないような、統治する実体というものを想像することが出来ようか、いやない(過去の王国の操り人形たちは、彼らの知らないうちに、口には出さぬ 口上によって、リボンをつけた彼らの人格において、おかしくてたまらない者を請け負っていたのだが、いまは、ただの将軍である)。この無作法な人は、彼が 自分がそうであると知っている神の荘厳さ、光輝さ、盛大さにおいて!ちらっと目をくれた後に、凡庸な都市に君を連れて行く道をもう一度歩みたまえ。そし て、君の失望も語らずに、誰も非難することなしに、現下においては思い上がった主人である君は、異常な夢のなんらかの角に向かう汽車によって、戻りたま え。あるいは、留まりたまえ。いかなる所でも君はもはやここよりは離れていないだろうし、そして、君ひとりで始めたまえ。期待と夢によって集められた総量 に従って、君の必要な上演を。人々の多様な行動を結びつける義務が君を除いて存在している時代に辿り着いたことに満足して。この契約はいかなる<印璽= 詩>も展示しなかったので、破られたのだから。

しかしながら、紳士淑女が彼らの仕方で、栄光と高貴さのあらゆる機能が不在の中で、彼らの全会一致の正確な欲望に従って、ある劇作品の上演に居合わせるた めに何をしたのか。にもかかわらず彼らは楽しまねばならなかった。音楽が沸き起こりながら笑っている間、彼らはサロンの単調な歩みをそこに合わせることが 出来ただろう。しかしながら、嫉妬深いオーケストラは舞台的な空気の精によって表わされた理想的な意義以外の何ものに対しても準備が出来ていない。<自 己>の奇跡、あるいは<祝祭>!ではないにしても、少なくとも彼らが路上で、あるいは家の中でお互いを知るような、彼ら自身を凝視するためにそこにいると いうことには自覚的である。こうして、緋色の幕が敬虔にも上がり、最も辛抱強くない彼らは、日常的に、あるいはどこにでもいるかのように振舞うことを受け 入れつつ、額縁舞台に侵入するのだ。彼らは挨拶を交わし、うわべだけの声で、彼らの存在が注意深く形作られるどうでもいいことについてお喋りをし、そうし た間、観客の側は他の者同士がお互いに気に入り、頭を逸らしながら、べらべら喋り捲る耳のダイアモンドを輝かせ、「舞台上で起こることについては私は全く 潔白だわ」と言うのに任せるとか、耳の揉み上げの線がある頬を「問題なのは私じゃない」と言うかのように暗闇から切り取られるに任せる。聖なる舞台への闖 入に因習的にそして気晴らしのように微笑みながら。舞台はといえば、罰せられることもなく、そうしたことに耐えられるはずもない。というのも、不器用な形 に隠されたガス灯の炎の先が、真正さの微妙で、法外で、野蛮なある輝きを照らし続ける為であるが、それは、不義と盗みといったごくありふれた芝居の中で、 この凡庸な冒涜者の思慮分別のない俳優の姿を鮮やかに照らし出す。

私には分かる。

――

『鰐』を観た。

サルドゥ氏は人も知るように、類い稀な巧みな才を持つ人だが、私にはしばしば、操り人形の虚しい半透明さによって、幕の上がり際の震える思いのような拡散 する光を遮っているように思われる。偶然に出会った様々な自我(私)に寄りかかりながら、彼は名を挙げて、これこれの紳士、これこれの婦人というものを生 み出し、高度な美学に従って、むしろ本質的な形象を提示することなく、野次馬根性に満足している。このような方法は、確かにその効果を取り逃がしているだ ろう。私は次のことに気付いた。もしも、移ろいやすく調整された性格だけを身にまとう能力がある俳優に、現実的であると同時に無償の存在を押し付けたなら ば、彼が望むのは、本能的な何でもないものによって、その物腰から、個性というものが突き出してくることであり、それは雑誌(フユトン)において劇評担当 記者がそうするように、道徳的な絆によって自分自身を登場人物の名前に重ねながらである。それゆえ私は、真実らしさという点では耐え難い外見によって舞台 上に据えられた小話とは別のものに関心を持った。それは(人は難破の劇というが)、人間的な小冊子、つまり詩であると同時に韻文ではないものである。想像 力はそこに、知的であることを望む環境の中での自らの優位を見出す。いかさまを埋め合わせるための音楽の横滑り。それは結構なことではないか! 文明的な 特徴を消すに到るまでありきたりの衣装から、哲学的な雰囲気(あるいはマスネによる楽曲)を分離する差異である。あなた方が観るのは演出に翻案された虚構 の物語の非常に成功した、新しい、しなやかな配合である。

しばしばあるようなこの機会において、私が私の意図と熱意が損をしていないとは言明できない。作品はしかしながら、この著名な作り手(サルドゥ)のコレク シオンの外部に、逃げ出そうとする。あらゆる世界の(人々の)破片から集められたこの座礁は、胸を抉るようで、奇妙で、悲しいもので、ある喜劇はそこでき いきいと破裂するが、それは波の側で、自然の笑いに浸されたかの如しである。

私は『ゴット』という、鋭いと同時に深いこの笑劇を、いかなる心を砕いた口調も取ることなく、怒りと非難と困惑の交響楽が膨れ上がる以外は何の価値もない ため、人生が我々に対して既にそれを押し付けているのはあんまりだというので、味わうことだろう。構造において均整の取れたリズムに従った沈黙のようなこ こでの譜面は、対照的で反転した場面、ある場面から別の場面の対比によって呼応しているが、そこにあるのは、様々な方向から行ったり来たりする唯一の文学 的妖精の綱渡り、ファンタジーである。それはそのスカートの一つまみによって、精神の根底に広がった仄めかしの透明さを消し、あるいは見せる。喜びの渦の 中に狂気的で矛盾に満ちた現実を覆うかと思えば、その爪先で突き刺したりする。しかし最後には、崇高な審判であり、パリ的叡智の最後の場であり、メイヤッ ク氏の否定のしようもないシーニュと誘惑で終わってしまうのだ。

こうして、知的で劇的な作品の中で、批評的で確かな眼差しには知覚可能な形で、再び現れるのは、舞台がそこにある所の、最初の「薄布の翼を持つ存在」である。

――

ベック氏は異論の余地なく流行の人間であり、洞察力によって公衆の趣味を、ただ一度そのままの形で取り押さえること以上に魅力的なことを私は知らない。も しもそれが事実を分析することでないのならば。何らかのテーズによって過たれるか、あるいは着色石版画の陳列台の上のもの、それは[彼の演劇と]まったく 正反対のものだが、そこまで無気力なものにされたすべての演劇に対して、この最高の劇作家は(広間にある胸像の称号を再現してみるならば)典型と行動の調 和を対置する。

そうして、この世紀の親密さ(=室内?)が見出される、いかがわしい、このような、これ見よがしの室内装飾に対して、ここ数年の内に、ルイ16世風の最後 の様式であるブルジョワ的で純粋な色合いがそれ自ら取って代わったところだった。私を捉えるのはアナロジーである。というのは、大型の安楽椅子にかかった 絹のドレス、あるいは控えめで、高貴で、親しみやすいマホガニーの並びと同時代の状態により良く適合したものを再び見ることがなければ、そこからは、盲目 的で装飾的な何らかの仄めかしの類似性によってかつて欺かれた視線が、それらの生々しさにひっかかったり、それ自身の怪物の奇妙な豪華さとねじれたものを 混同することはないのだが、制御されながらも、しかしそれが作品であることで完璧な、作品の作り手には私は共感する。なぜならそこにひとつの技術があるか らだ。それが私を魅惑するのは、稀で崇高な伝統であるすべてのものに忠実であることによってであり、私の目に未来を見えにくくするものではないからだ。

昨日の冒険、つまり『ミッシェル・ポペール』のこの偉大な再演の外で、公衆と巨匠の間に居座ることの出来る誤解は、聡明な賛嘆の力によってもしも話をは しょるなら、人々が、困惑しながらも新味を願う中で、すべての作品から独創的な芸術を期待しているというところから生じている。ところがそれは、古典的で 旧式なジャンルの予期せぬ、栄えある最後の達成が、近代性の唯中で、なされたということである。それは、我々の経験にとって、あるいは、今世紀の前には、 完全に裸の形で用いるべきではないということを人々が信じることの出来た、良く分からない残酷な無関心にとってである。特に『パリジェンヌ』とは別のもの を望むのは、それは傑作よりもよいものを想定することである。作家の力がまだ熟し切ってはいないとはいえ、その成熟した作品のなかで光輝いているのだか ら。それは『鴉ども』を超えるだろうかって。私はそうは望まないし、そうならないであろう。一作一作を、我々の公的な舞台の上で故意に回顧的なものとして これらの作品を取り上げてみれば、それらはその成功した晩から明らかであったのだ。そして、勤勉家は、非常に特殊な歴史的事情によって、我々の文学の末期 に、生き生きとしていながらも素朴な美しさを解き放ったジャンルの様々な見本を、自分の周りに集めるだろう。驚きをじりじりと待つような素振りをしてはな らない。それは既に存在しており、大切なのは、過去の天才達の一人が火を灯すことの出来たものよりも、遥かに激しい輝きをもって完成しつつある芸術なの だ。それは美の啓示であり、我らのフランス風俗劇である。この誤りは、知性によって、芸術家に対して困惑を産み出す以外のものではないと思われる。その文 学的な形態を特徴づける空威張りによって、ある冬に、未完成で準備中の素晴らしく、苦く、また気持ちのよい、情熱と若さに溢れた色調のより強度な下書きを 上演することを彼が好むのだとしたら、わずかばかりの名声の為に甘やかされた人間がそれに対して権利を持つ好奇心の遅れを、不正な張りぼての外へ自信に溢 れて取り出す前に、なぜもたらさないで、慎重さのような最近の例外的な彼の状況に、大胆でもなんでもないものを支払わせようとするのか。15年の期間の後 であることを確信し、自分を再び結びつけるのではなく、書き直しをするのでもなく、彼が提示したものは、素晴らしい噴出の断片の不調和なもの以上の崇高な 集合体である。



しかしながら、絶対とは別のものに関して、私の無能力をダンディズムから開陳する部分があるのだろうか。それは最初に嘔吐をもよおすものを知ることへの疑 念である。恍惚と豪華さ、あるいは仕官のための徽章の空虚さを身に付ける虚しい聖職者とは異なった商品をもたらす陥入である。

三面記事とだまし絵のの粗忽さによって、劇場を奪うということと「詩」を排除するという、それらの戯れ、崇高さ(観客における潜在的な希望)は私には、よ く分からぬ欠伸に特有なものとしてそれを見せることよりも程度の低い仕事に思える。この神々しさをのろまで卑俗な装置の中で始めることも、恐らくはそれを 言い落とすことと同様に賞賛に値するように。

言いがかり、といっても、私がオデオン座にぶつける唯一のものであるが、それは、オデオン座がここを他でもなく別のものと交換可能なものとしていることと いうことではない。それは自分自身の偽りの権限へと向かい、建築へと依存する。しかしながら、まがい物の信仰の殿堂は、科学薬品による炎を放つ三角床机の 上で、ウェスタの巫女と語りながら、それでも偉大な芸術!を餌として与えるために、細心に、誤りのないように、まさにポンサールという名称を何か根本的で 真実なものとして保持するような混合物に頼っているのだ。行く年、来る年の正当さを否認することが、確認事項として断言され、そこでは公式な封印が押され ることに不快感なしには私は見ることが出来ないが、その確認事項とは、例えば『恋する獅子』においてもたらされたような、自己を明確に示す形態において は、我々の年代は不毛である、ということである。つまり、空無を存在させることを真似することにより、存在しないものを埋め合わせるということだ。反対 に、この「覚書」ではまず、我々は単色画と対峙している。そして、冷たい地下聖堂の巫女であるあなたは、かつては全てのものであり、経済的目的のなかに あった、その永遠性の埃に生まれながらに飾られている、これらの示された壜の一つに手を付けるべきではなかったのだ。このポンサールは、というのも、今日 のラッパを吹き鳴らしながら、私はその名を繰り返さなければならないのだが、彼はいかなる点でも私の胆汁を動かすことがない。彼の栄光はそこから来ている のだが、彼が驚くべき、危険な、法外な、殆んど美しい厚かましさを、ある一味に対して、他のあらゆる輝きが欠落している中で、神(=ユーゴー)が光り輝い ていた時に、彼が劇場で上演したのは「詩(ポエジー)」なんだと説得しながら、見せたことを別にすれば。私は、彼が確かに意識しなければならなかったユー ゴーのことを念頭に置いたという点では、彼を賛嘆する。卑しく、おぞましく、能力もなく生まれている者としては、ユーゴーのような誰かがいないので、頻繁 に登場するという義務を果たしたのだ。そして、結局は、頑強なボール紙から出来ている努力の為にがんじがらめになったのだ。いささかゆったりした悪意、そ して奇妙さ!我々が思い出さなければならないないような誰かであったところのもの。しかし、その追悼行事として、突然、新しい世代に強く促すということは どうでもいいことだ。素朴で正しい魂を持っている私は、どのくらいの偏愛を示しているだろうか、とはいえ、なんらかの同時代人を犠牲にしてまで、彼らを蘇 えらせることを望むことはなく、我々も微笑を浮かべるか、あるいはもしもそうなら彼らもまた微笑するかも知れないが、抒情詩が全般的に消滅するという時期 に―つまりリュース・ド・ランシヴァルやカンピストロン、その他の亡霊―、この不吉な空虚を否定するという唯一の慎み深い目的に身を捧げた詩人の真正なる 代わりをしている者たちに対して。彼らは、巨大な裂け目と微笑の中で、「女神」のヴェールがどこかに行ってしまったと告白するよりも、彼らの魂がそうで あったものに対して、ぼろきれを方法やからくりにいたるまで、衣装として適用した。これらの取るに足らぬものたちは、今後も[それなりに]感動的なものと して残りつづけるだろうし、同程度に、私は彼らの末裔を気の毒に思う。彼らに対しオデオンは今夜、被害を及ぼした。彼らは祭壇の名誉を逃れようとする連中 に似ているが、その名誉は彼らの握り締められたこぶしとおそらく半睡状態の絶望に要約される。彼らの模倣者、彼らの先駆者、全てを私は教育的であると同時 に、グロテスクであると思う。彼らが世紀から、聖なる委託物として受け取り、次の世紀に引き継ぐものは、まさにそうではないもの、もしそうならば、知らな くても良いようなもの!芸術の澱、規則や形式、何でもないものだ。

ステファヌ・マラルメ


 
マラルメ「演劇に関する覚書」第7回(「独立評論」1887年5月号)

ふと思いをめぐらせてみれば、フランス悲劇の簡潔な襞に横たわる意図は白い灰の中に古代のものを呼び覚ますことではなくて、何でもない場所かほとんでそれ に等しいものの中に、人間の最も偉大な姿勢を、しかも我らの道徳的な塑形としてを産み出すことであった。

例えば、かのデカルトの内的操作にも等しい彫像術であり、登場人物の統一によってかつての意義深い舞台が、演劇と哲学を結び付けつつ、それを利用しないと したら、非難しなければならないのは、抽象的な典型を活性化するには、準備された、くだくだしい、そして中性的なその気質にもかかわらず、何かを生み出す には控えめなある時代の誰の目にも明らかな学識豊かな趣味である。あれらのギリシャ語好きにとっての一ページ、又はラテン語の一ページも、写すだけならば 役に立つものだった。観念の跳躍の形象は学校教育的な強迫観念を世紀の流行ほどにも取り去ることはなかった。

本能的な噴出だけが生き残り、幻影の美しい筋肉を形作ったのだ。

反対であるにせよ同じであるにせよ、もしも私がゾラ氏というあまりにも簡素な視覚の人間たる人の構想を明確にしようとしたら、彼は「近代性(モデルニ テ)」を決定的な時代として受け取っており、その上を、相も変らぬ英雄的ジャンルの中でルイ14世風の単色画法が飛び去ったのだが、彼はそこに、何か一般 的かつ安定した土地の上に建てるように、それ自体としての劇(ドラマ)、つまり万人周知の事柄以外のいかなる寓話の外にあるものを打ちたてようとしてい る。というのも、私が思うに、我らの先駆者たる詩人たちの崇高化の手段は、昔ながらの魅力的な悪徳、すなわち一つの総合から韻律の優雅さを解放するという あまりにも容易な手段によって、求められている技法に近づくが、とはいえこちらは、本当らしさ、あるいは偶然の衝突を倍化する分析的切り口によって異なっ ている。

生涯の嵐のごとき大団円がくるとして、この時代の人間たる私たちは、我らの物に動ぜぬ態度を掻き乱す動作と叫びの驚きに到るまで、どれほど注意して飾りな がら、単なる会話をするために席につくのかを思い出しておこう。こうして、このような立ち居振舞いによって、観客の内部に、下の方のくすんだオーケストの 響きを蠢めかしつつ、『ルネ』が始まり、私を魅了する・・・。すべては語らずとも、黙ってすらいる登場人物によって、おのおのの感情の状態が落ち着いて解 決される。我々の現今の態度、あるいは崇高な人間的態度の固有性とは、決心した後にしか語らないということであり、最も高貴な感情的ですらある動機からな るこの瞬間に不当な干渉をゆるすことからは程遠い。そのとき我らの中に、偉大な機会の非登場人物性が確立される。

伝統的な全ての芸術から排斥された法なのか、いや、そうではない!それは中断されることのない雄弁な論争において、古典的演劇を誘発する。17世紀のフェードルとの主題の上での類似よりも、この関係によっても、最近の風俗の劇はかつてのものに隣接する。

それ以後、あるいはそれ以前、しかし承知の上で、ある同時代人がその状況を取り扱うのを見たまえ。彼は自分自身の判断への純粋な呼びかけによって解き明か そうとする。他のものに関するように、自らを危険に晒すことなく。サッカールと主人公の父とルネの三重の契約が、出来事における予想された損害を決意しな がら、そのことをはっきりと照らし出す。これ以上に厳密に近代的な劇の開始はないと私には思われるほどであり、同時に、それは演劇的である。それは先取り されたか後から手に入ったかはともかく、自己の制御における技巧というか、少なくとも虚構の分量によってである。

この自発的な外部の消去は我々の存在する方法を特権化するが、破裂することなしには引き伸ばされることが出来ない。そして、生きるという壮麗な行為に対す るあまりに多くの制約と不要な用心に対し息抜きを与えるだろう、手短で一層暴力的な雷光が、誰の目にも明らかなある日、それ自身が表れ出ることをこのよう に禁止するという理由で誤って受け止められるような不幸を記している。

・これこそが現在の演劇の理論、あるいはよりよく言えば「作品」の理論である。潜在的な劇が現れでるのが、我々の本能の還元不可能性を主張する何らかの突然の破裂によってであるがゆえに。

(続く)



 

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