演劇評論2007年



【第1回】生と死の狭間に屹立する「声」ーヤン・フォッセの試み


【評者:坂巻康司】(2007年6月12日)

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『死のヴァリエーション』Variation sur la mort

2007年6月7日(木)於:兵庫県立芸術文化センター中ホール

作:ヤン・フォッセ Jon Fosse
演出:アントワーヌ・コーベ Antoine Caubet
翻訳:長島確
出演:長塚京三、高橋恵子ほか

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久 しぶりに批評に値する作品に巡り合った気がする。現代ノルウェーを代表する作家ヤン・フォッセの戯曲が、フランスの演出家アントワーヌ・コーベによって舞 台にかけられたのだ。この日本語ヴァージョンに、長塚京三、高橋恵子というベテラン俳優が参加するというのだから気にならないほうがおかしい。

まず、これは現代演劇であり、かつ難解な戯曲であり、日本ではとても観客を呼べるような作品ではない。しかしこのような作品の上演を企画し、成功させてい る世田谷パブリック・シアターとその芸術監督の野村萬斎、そして翻訳の長島確には尊敬の念を禁じえない。加えて同シアター学芸係の石井恵の絶え間のない努 力も忘れてはならない。彼らのおかげで、我々はまるでパリのコリーヌ国立劇場にでも行かなければ到底観ることは出来ないだろう作品を東京で、西宮で、高松 で、山口で観ることが出来るのである。このことは特筆しておかなければならないだろう。

さて、問題の作品である。「年老いた男」(長塚)と「年老いた女」(高橋)はかつて夫婦であり、二人の間には娘がいた。いま、その娘が死んだという現実が 二人の前にある。すると、その二人の背後では若かりし頃の二人の姿(伊勢佳世、瀬川亮)が浮かび上がり、まさに娘が生まれるという瞬間がたち現れる。冒頭 から「死」と「生」が折り重なるようにドラマは展開していく。二人の男女の記憶の中にある娘(杵鞭麻衣)の姿が現れては消え、消えては現れ、かつての自分 たちと会話を重ねていく。そんな彼らの間に、娘の「友達」と称した死の象徴(笠木誠)が彼女へと近づき、いつの間にか彼女を死へと誘おうとする。

アントワーヌ・コーベの演出する舞台は暗い。照明もコーベが担当しているが、最初は長塚と高橋の姿を確認するのも難しいくらいである。これほど暗鬱な舞台 であるが、かといって象徴主義の舞台とは全く違い、むしろ舞台造形は形式主義的に処理されている。暗闇の中に浮かび上がる三つの扉から漏れる光、そしてそ の光の中から現れ、そして消えていく登場人物たち。このような光と色彩の感覚はミッシェル・ドイッチュ作、アラン・フランソン演出の『スキナー』 (2002年、コリーヌ劇場、パリ)で描かれた近未来の見知らぬ土地を思い起こさせる一方、昨年、この劇場(兵庫県立芸術文化センター)でも上演されたロ ベール・ルパージュ演出、白井晃出演の『アンデルセン物語』における幻想的な仄暗い空間とも合い通じるものがあった。しかしこれら二つと比較しても、コー ベの演出する世界は飽くまで暗く灰色がかった世界であり、そこに明るい色彩が交わることは皆無である。

この舞台では、このような中で時間が絡み合い、そして空間が絡み合っていく。現在を生きる老夫婦はかつての自分たちの姿を眺めながら、彼らに呼びかけるこ ともできる。若い自分たちも現在の彼らを見つめ返すこともある。にもかかわらず、この舞台が不可思議に見えないのは、主演の長塚京三も言うように「この作 品の中では<死>と<生>と<愛>が同じ意味を持っている」からであろう。我々はこの時間と空間のねじれの構造を受け入れることによってしか、この劇の中 に参入することはできない。そして、繰り返される彼らの小さな物語の中に我々が確認することができるのは、破滅へと向かっていく人間の姿だけである。

とはいえ、この作品は観客には悲劇とは感じられないだろう。過去に対する悔恨がこの作品世界を支配しているようには決して思えないのだ。ただ、現在の自分 たちの姿が過去の自分たちの姿とだぶるということがあるとうこと。そして、忘れてしまった取り返しのつかない過去の時間というものが必ずあるのだというこ と。そして、重層的かつ重複的な形でしか表し得ない自分たちの姿こそが実は生の本当の姿なのかもしれないということ。そのようなことを観ているものに考え させる、不思議な効果を持った作品である。

そして何よりもこの作品の中心にあるのは人物たちの「声」だ。舞台を占める暗闇もこの「声」を屹立させ、際立たせるために他ならない。かつて、妻を前に、 娘を前に、夫を前にふと漏らした一言。それは言葉であるよりもまず「声」としてその場にある。その「声」はそこで終わることなく、時間の中を永遠に響き渡 り続ける。「声」はその場だけのものではない。ある場で発した「声」が他の場ではまた別の意味を帯び、また別の場では全く違う意味となることもある。その 響きは常にその強度を保ちながら、様々にヴァリエーションを経ながら存在し続けるのだ。この芝居は「死」のヴァリエーションである以上に、「声」のヴァリ エーションであるということに観るものは思い至るのではないだろうか。

この「声」に比べれば登場人物の肉体は何とも朧げである。作者のヤン・フォッセは「声」を除いては希薄な存在感しか持つことのできない人間の姿を独特の方 法で描き出したと言えるだろう。象徴主義でもなければ、自然主義でもない。ロマン主義でもシュールレアリスムでも全くない。この、いずれのジャンルに所属 することも拒絶し、しかし、いずれのジャンルでもあるかのような作品を演出のコーベは見事に舞台化することに成功している。そして、長塚京三もまたフォッ セの意味する世界の複雑さを演じ切ったといえるし、高橋恵子もこのような翻訳劇への出演は初めてとのことだが、さすがにベテラン女優としての存在感を見せ たと言える。しかし、こうした作品が認められていくのはこれからであろう。フォッセの作品の連続上演を続けているという京都の劇団「地点」(代表:三浦 基)の活動も気になるところである。フォッセの時代はいま始まったばかりだ。



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