関西マラルメ研究会 パリ演劇日誌
 

お古いのがお好き? −2005-2006年、パリ(古典)劇観賞記

par 足立和彦



【第十一回】  夏の夜の夢−『シラノ・ド・ベルジュラック』、『舞台は夢』

2006年7月23日(土)20時半
Edmond Rostand, Cyrano de Bergerac, Comédie-Française, Salle Richelieu
Denis Podalydès 演出
 
極 力短い粗筋 オテル・ド・ブルゴーニュ劇場。パリに出たばかりのクリスチャンは、恋する相手がロクサーヌだと知る。役者モンフルリーの芝居を中断させ、彼 を追い出したシラノは「鼻の演説」の後、子爵を決闘で倒す(一幕)。ラグノーの店。ロクサーヌとの面会で彼女の思いを知ったシラノは、クリスチャンの保護 を誓う。部隊に入隊したクリスチャンはシラノを唆すが、シラノは援助を約束する(二幕)。ロクサーヌの家の前。夜陰に乗じ、クリスチャンに入れ代わってシ ラノは愛を告白する。ロクサーヌに恋慕するド・ギッシュが尋ねてくるが、シラノが巧みに妨害、恋人同士を結婚させるも、ド・ギッシュは出陣を命じる(三 幕)。アラスの戦場。ド・ギッシュは絶望的な戦闘を命じるが、そこにロクサーヌがやって来る。彼女がシラノをこそ愛していることを知って絶望するクリス チャンは戦場に斃れる(四幕)。15年後、ロクサーヌのいる修道院。復讐に遇い傷ついたシラノがやって来る。ロクサーヌは彼の心の真実を知るが、シラノは 息絶える(五幕)。

今回の『シラノ』は、基本的にオーソドックスな演出だったと言っていいだろう。各幕に大がかりの舞台装置を設え、多数の登場人物が激しく交差する中、勢い よく物語を展開させてゆく。スペクタクル性は『シラノ』人気の一つの要因に違いない。クリスチャン・ラクロワの衣装は時代物のようでいて、そうでもない独 自のもの。舞台装置には特別に力が入っていたようだ。

さして広くは無いリシュリュー劇場の舞台をぎっしりと装置で埋めた一幕や、天井から肉製品を大量に吊り下げた二幕は特に目を惹き、対照的に何も置かずに舞 台を広く使った三幕の恋愛場面は効果的で、ロクサーヌを宙吊りにしての、シラノとの対話の場面は稀に見る美しい場面に仕上がっていた。四幕、戦場場面では 血を表す赤の紙ふぶきが鮮やかに映り、『ボレロ』の高揚をうまく使って場面を盛り上げた。ただし五幕は素の舞台。

終始一貫してシラノの台詞で埋め尽くされる本作品、成功の鍵はなんといっても主役俳優にかかっている。Michel Vuillermoz は激しいけれどもナイーヴな面のある人物としてシラノを演じた。いささかなりと「疲れた」感を滲ませて(夏ばてという訳でもないだろうが)、とりわけ終 幕、哀愁の伴うシラノ像をくっきりと際出させてみせた。あるいはもう少しばかりの「押し出し」が欲しかったところだろうか。観る者を圧倒するような存在感 をこそ「シラノ」にはねだりたくもなる。ロクサーヌ(Françoise Gillard)、ル・ブレ(Éric Génovèse)、端役ながらラグノー(Grégory Gadebois)などもそれぞれの役柄をきっちりと演じて見せたけれど、シラノの前では影が薄くなるのは致し方ないところ。

前半三幕で二時間。二十分の休憩を挟んだ後、後半二幕は一時間弱。とりわけ四幕は細部の台詞をカットして速いテンポで進めたが、どうしても急いだ感が否め ない。シラノの最期の場面もまた控え目なものであった。結果的に、舞台の華々しさと裏腹に、前半の重厚さに比して、後半から終幕にかけていささか淡白に過 ぎたという印象だ。全体として、よく出来た舞台ながら今一つ物足りなさの残るものとなった。ロマンチスムを押し出し過ぎることを演出家は嫌ったのだろう か。そんな風に思いもする。大仰になり過ぎないことが、現代の観客の趣向への配慮として適当なものであるのだろう。

恐らく、ロマン派以降の19世紀演劇(コルネイユなども同様だが)を今日再演する際には、常にこの種の問題がつきまとう。今日、ユゴー劇上演の困難は想像 に難くないが、19世紀演劇の掉尾を飾る『シラノ』もまた、程度の差こそあれ、雄大さと大仰さの間のバランスが難しい。

とまれ、夏休み直前のCFを満席に埋めるほど『シラノ』人気は根強い。スクリーンに映す映像や、様々な音響を駆使して見応えあるものに仕立て上げた今回の 演出は、現代における『シラノ』の上演として、十分な成功と言えるものであったかもしれない。暑い夏の夜に似つかわしいような、華々しくも爽やかな舞台 だった。

(『シラノ・ド・ベルジュラック』 よく出来ましたの80点)


2006年7月29日(土)21時45分
Corneille, Illusion comique, Cour de l'Hôtel Gouthière, plein air
Stéphane Druet 演出

粗 筋 かつて息子を勘当したアルカンドルは魔術師プリダマンに助けを乞う。魔術師は彼の息子クランドールの幻を見せることを約束する。クランドールは隊長マ タモールの部下。マタモール、アドラストはイザベルを誘惑するが、イザベルとクランドールは愛し合う仲。アドラストを決闘で倒したクランドールは牢に入れ られるが、イザベル、召使リーズの手引きで脱走(四幕まで)。クランドールは主人の妻ロジーヌを誘惑するが、イザベルの言葉に思い直し、ロジーヌを説得す るも、護衛に見つかり殺される。アルカンドルは嘆くが、実はクランドールは役者になっており、今のは芝居だったと明かされて幕(五幕)。

7月も半ばを過ぎれば劇場は夏休みに入る。そんな中、「Nuits d'été」と銘打った、いかにも夏向きの芝居の上演があったので、その紹介をもって、11ヶ月に亘った「パリ古典劇鑑賞記」の締めくくりとしたい。

オテル・グチエールは18世紀の質素な建築物。扉を抜けると縦長の中庭で、三方を建物が囲んでいる。そこに椅子が百ばかり並べられている。正面の建物の入 り口が十段ばかりの階段になっており(両脇にスフィンクスの像)、そこに赤い絨毯が敷かれ、これが舞台となる。椅子に腰掛けて待つ間に日が沈んで行き、微 風が心地よい。爽やかな夏の夜の野外舞台に『舞台は夢』はいかにも相応しいように思われる。

アルカンドル(Philippe Mambon)は何故か軍服を着て背後から登場。正面の扉から現れる魔術師プリダマン(Jean-Louis Bihoreau)は手品師の衣装。形式ばった大仰な身振りや台詞に始めは少し戸惑ったが、難しい話抜きの古典劇らしい「喜劇」を、素直に楽しめばいいの だと分かってくる。そう思えば、まるで大道芸を見ているような気分で、出来ればビールでも片手に鑑賞したかったところだ。マタモール(Simon Caillaux)はとりわけ滑稽さを際立たせ、機敏な動きにも卒が無かった。クランドール(François Briault)、イザベル(Emma Fallet)もまずまず、リーズ(André Brusque)はいささか叫び過ぎだったか。

舞台の上にハンガーを吊るし、役者はひっきりなしに衣装を代える。目を楽しませることを狙ったのだろうけれど、脱ぎ着がいささか目障りでなくもない。左右 の建物の窓から顔を覗かせたりと、場所をうまく使った演出には好感がもてた。最終幕の劇中劇は、ややこしい台詞をカットした上で、大げさな照明、音楽を使 い、馬鹿馬鹿しく恋愛の場面を演じ立てた。派手などたばた劇にするには、概して17世紀の脚本は上品に過ぎるものだけれど、それでも精一杯、賑やかしく、 陽気な「真夏の夜の夢」を描き出してみせたと言えるだろうか。脚本末尾の台詞さながらに、やはり演劇はいいものだと、素直に思いながら席を立った。

すっかり夜も更けた11時半、帰り道を辿りながら、街中にひょっこりこんな屋敷があり、そこで芝居を演じることが出来るという、パリという街の懐の深さのようなものを思った。

シーズンが開ければまたパリの街の至る所で、飽くこともなく古典劇が上演され続けるだろう。古典劇を鑑賞するということが、この街ではかくも根付いている。1年を通して何度も感じたことを、また改めてしみじみと思いながら、メトロの階段を降りた。

(『舞台は夢』 イリュージョンに乾杯 80点)





【第十回】  時には現代物を −『イフィジェニー・ホテル』、『2001年9月11日』

2006年6月10日(土)20時20分
Michel Vinaver, Iphigénie Hotel, Théâtre Nanterre-Amandiers, Grande Salle,
esquisse de mise en scène par l'auteur avec la collaboration de Gilone Brun

今月は現役作家ミッシェル・ヴィナヴェールを二本続けて観る機会があったのでご紹介したい。ヴィナヴェールは1927年生まれ、現代演劇の重要人物の一人ながらジレット社の社長を長らく勤めていたというから凄い。

1959年に執筆された本作品、初演は77年ポンピドゥーで行われた。テクストは長短3種類あるが、今回は新しい全集に収録されたもの。

舞台は58年5月26日から28日までの三日間、ギリシャのミュケナイのホテル「イフィジェニー」である。ミュケナイ王アガメムノン、妻クリュタイメスト ラ、娘のイピゲネイア(イフィジェニー)云々と、トロイア戦争の物語が背景に存在し、登場人物の考古学者はクリュタイメストラの墓を発見した(かもしれな い)という設定。

一方、58年とは、アルジェリア駐屯軍の蜂起の起こった年であり、動乱によって国境が封鎖された(かもしれずに)足止めを食ったホテルの客と、従業員達の 物語が舞台に展開する。結果的には28日に動乱は穏便に終結し、ド・ゴールの復権によって第四共和制が消滅する、というのが後の歴史的展開。

けれども実際に舞台に展開する物語に明確な筋は存在しないといっていい。かつてホテルの支配人だったオレストが亡くなり、その後釜に付こうとする従業員ア ランと、他の従業員との間に対立が起きる一方で、アランはメイドの一人ピェレットを誘惑する。もう一人のメイドのロール、メイド長エミリー、新人従業員 ジャック、給仕エリック、舞台に出ない料理長エルミオーヌ等の関係は、緊張を孕みつつ微妙に変化してゆくが、大きな事件が起きるわけではない。

従って問題はまさしく微妙な人間関係そのものにあると考えるべきだろう。そしてそこでは些細な事柄こそが重要な意味を持つ。ピェレットが美容目的で盗んだ 油を理由に料理長は怒り、メイドの監督権を巡ってアランとエミリーは諍いを起こす。炊事は自分の仕事ではないというメイドの職業的尊厳、アランとエリック との権力争い。(あるいは、実際の我々の生活でそうであるように)そうした些細な事柄こそが深刻であり、ここでは誰も植民地やフランス内政に関して深刻に 考えたりしていない。古代文明の発掘もまた、金銭目当てに指輪を盗むかどうかが重要であり、後はブランド商品の撮影に利用されるばかりである。

恐らく本作においてヴィナヴェールが描こうとしたのはそういうことであり、『職探し』以降、企業を題材に取り上げることでより一層発展することになるものが、ここには素描されているのだろう。

(もっとも神話的要素は深く検討する余地がある。オレストとは、クリュタイメストラの息子オレステイアであり、そもそも題名からして無視することの出来ない点だ。)

作品についてはここまでに留め、今回の上演の話に移ろう。

脚本には舞台設定が詳しく書かれているのだが、今回は四方を客席が囲む平土間を舞台にし、椅子等の小道具だけを用いるという選択がなされた。四つの場面が 次々入れ替わる上演上の難点をそれによって回避したと言える。人物や道具の配置を絶えず動かすことで単調にならない舞台に仕上がっており、人物の距離の取 り方にも工夫があった。音楽は一切なし。演技はレアリスムに則ったもので過剰なものは少しもない。とは言え上記のような素の舞台であるために一種の異化効 果が生まれるのは意識的なものだろう。道具を動かすだけで台詞を発さない二人の人物が常に舞台に居続けたのも、同様の効果を狙ったものか。「日常性」を問 題に付すことが、やはりこの劇の一つの眼目であるだろう。役者ではアラン(Julien Muller)、ピェレット(Véronique Hubert)の好演を評価しておきたい。ロール(Véronique Muller)、ジャック(Philippe Gial Miniet)の名も挙げておこう。

幕間無しの二時間半。正直疲れを感じたが、きびきびした役者の演技で乗り切ったと言える。一見変哲のない舞台だけれど、よく計算されたものであったように思う。

今年で79になる作者自身が前口上を述べ、彼自身の演出によるものだと思えばそれだけで感慨深いものもあるが、パリでは77年以降上演がなかったという本 作、今後の再演の契機と成り得るものであったかどうか。その判断は難しい。あまりにオーソドックスに仕上がってしまったのではないか、とそんな疑問が残っ た。
若い演出家の手になる大胆果敢な演出こそが、本作の真価を明らかにしてくれるのではないか。ふとそんな風に思いもした次第である。

(『イフィジェニー・ホテル』とまれ作者の健康を願って 80点)


2006年6月17日(土)21時
Michel Vinaver, September 11, 2001, Théâtre national de la Colline, Petit théâtre
Robert Cantarella 演出

9・11のような大事件を前にして芸術家は何を語るべきなのか、あるいは何を語ることが出来るのか。もし彼が沈黙するのでないならば。

『2001年9月11日』は、ヴィナヴェールの出した一つの解答である。いや正確には解答とは呼べないかもしれない。あの日に起こった出来事の「模倣」で あり、「出来事を一切のコメント無しに、その直接性の中にむき出しのまま固定する」ことを目標として、事件後数ヶ月の内に書かれたという本作品は、飛行機 の中にいた人の声、タワーから逃れ出ることの出来た人達の証言、テロリストの遺書、そしてブッシュとビン・ラデンの語る言葉とをコラージュのように纏め上 げた(だけ)のものである。台詞の間にはコーラスがさし挟まれ、作者自身の言うようにバッハのカンタータを思わせる構成となっている。「出来事の中におい て考えるのではなく、出来事そのものを考察すること。」作者はどちらの立場にも与しない。9・11を再確認し、ただ出来事の意味を考え直すこと。今日芸術 家にそれ以上のことは出来ない、あるいはするべきでないと作者が考えているのかどうかは分からない。いずれにせよ、今日、芸術家の社会における存在の困難 さを思わずにはいられない。

対話、筋、行為の存在しない本作品は普通の意味で「演劇」と呼びにくいものである。上演にあたっては演出家の働きが重要となるだろう。

なお本作は最初英語で執筆され、後にフランス語訳を付して出版されている。Center for New Performance at CalArts はアメリカの劇団で、2005年に上演されたものの再演である。台詞は英語で、フランス語の字幕表示で上演された。

板敷きの素の舞台。役者は交代しながら「女性の声」「ブッシュ」と、役柄を述べてから台詞を発してゆく。揃って十代、二十代の役者ばかりの点、若い劇団で あるのだろう。アメリカ本国でこのような作品を取り上げる心意気は評価に値する。しかし上演は疑問の残るものだった。

役者の基礎的な訓練が十分ではないのではという疑問はさておき、それぞれの動き、身振りが意味を成しておらず、小道具の用い方も上手いとは言えないし、や はり意味を持っていない。全体の統一が見えず、演出家が何を意図しているのかまるで理解出来ないというのが率直な意見だ。何より重要なのは繰り返しにあ る。

本作品は短いものであり、速い展開で演じて三十分。役者は元の位置に戻り、もう一度初めから演じ直した。そしてさらにもう一回と都合三回(三度目は字幕無し)役柄を入れ替えながら、ほとんど同じ舞台が繰り返されることとなった。

この選択が間違っているとは思わない。繰り返しには常に独特な効果が伴う。繰り返すことで物語そのものへの興味は必然的に薄れ、結果として観客の視点は細 部により深く入り込み、そして(理想的には)「出来事の考察」へと赴くこととなるだろう。繰り返されることによる平凡化は、あるいは当時我々がテレビの画 面を前に体験したことを想起させるかもしれない。非日常を日常に還元するというあり方こそ、実は今日の我々が無意識に行っていることではないだろうか。

しかし理念は理念である。前述のように個々のシークエンスが曖昧であるために、繰り返しは一層観客の注意を削ぐこととなった。二度目以降席を立つ観客が多 かった事実の意味は率直に認めてしかるべきだろう。もちろん本作を「商業演劇」の脇組みで評価することは差し控えるべきである。「よく出来た」作品である ことを、あるいは演出家は意図的に忌避したのかもしれない。だが、では代わりにそこには何があるのか。9・11を派手な物語として「消費」してしまうこと を避けた結果は、その物語を「芸術」として昇華させるにも至らないままに終った。

今日なおアクチュアルな問題である本作品を上演することはいかにも難しいだろう。だが思想的であることから逃れることに終始することで、演出家は作品と正面から取り組むことをしないまま、前衛的な試みの内に逃避してしまったようだ。

来年度、ヴィナヴェールの上演は既に四本は確定しているという。今後も上演が繰り返されることを望むと同時に、実に難しい『2001年9月11日』に、フ ランス人にも取り組んでもらいたいと思う。フランス人の作者によって(こそ)執筆されたこの作品には、その意義が十分にあるように思われる。

(『2001年9月11日』 意欲は称えるけれども 55点)




【第九回】  まだ「古典」ではなく −『黄金の頭』、『徒刑場』

2006年5月4日(木)19時
Paul Claudel, Tête d'or, Comédie-Française, Théâtre du Vieux Colombier
Anne Delbée 演出
 
粗 筋 妻を埋葬したシモン・アニェルはセベスに出会う。絶望する二人だが「木」を前にシモンは力を獲得、セベスは彼への忠誠を誓う。(一幕)宮廷。兵士が戦 場に出る夜、国王は夜営と共に夜を明かす。王女が「叡智」を告げた後、「黄金の頭」(シモン)が凱旋。セベスは彼の腕で息絶える。「黄金の頭」は自らの権 利を主張し、国王を殺害して王権を得た後、王女を追放する。(二幕)コーカサス山脈の戦場。野に逃れた王女は脱走兵によって木に磔にされる。王となった 「黄金の頭」は戦場で異教の神に倒される。瀕死の彼は王女を助け、遺言として彼女に王権を委譲。王女もまた息絶える。(三幕)

おまけ 1889年に最初の原稿が完成。94年に改稿。ジャン・ルイ・バローの要望を受けて上演のための三稿を期すも未完に終る(1949年)。作者の死後、オデオン座のこけら落としとしてバローによるフランス初演(1959年)が行われた。

舞台全体を占めるのは根こぎにされ、逆様に置かれた巨大な木。三面はカーテンで覆った白壁。最後にカーテンが落とされ、黒壁が顕になる。衣装は特に時代を限定しないもの。

『黄金の頭』は特異な作品だ。

二十歳の青年の抱く煩悶と鬱屈、それを乗り越えようとする「力」への希望を「自由詩」という形式の中にこれでもかとばかりにぶちまけた本作は、良い面、悪 い面を含めて最も「クローデル的」であると評価されている。傑作であるかどうかの評価は分かれるだろうが、しかし尋常な作品でないことは誰もが認めるであ ろう。

初めから上演を念頭に置かずに執筆された作品を舞台に乗せるのはいつでも困難な営為である。そつのない成功など期待出来ず、常に演出家の創意と力量が問わ れよう。本上演、幕間を挟んで四時間を越える力の入ったものではあったが、果たして原作の長所を十分に生かすものであったかどうか、疑問の残るものであっ た。

Thierry Hancisse は主人公の抱く苦悩を最大限に力溢れる熱演で演じ切った。Cébes を演じる Clément Hervieu-Léger も負けずに情熱的な演技で、不安、苦しみと羨望の念を鮮やかに描いて見せた。王妃 Marina Hands、国王 Andrzej Seweryn もひけをとらない演技を見せたが、滑稽さと威厳とを混交させた国王の役柄には調和を乱すものがあったようだ。総じて役者の熱演は賞賛に値し、四時間の長さ に観る者を耐えさせたのは、「黄金の頭」の渾身の演技に拠るところが大きいだろう。

ヴィユー・コロンビエ座のさして広くない舞台を大きく占めるのは、逆様に吊り下げられた、根こぎにされた大木である。役者が登り下りすることで、立体的な 空間が効果的に利用され、印象的な舞台であった。だが三幕を通じて舞台の変更がなく変化に乏しかったのは、四時間という長さを考えればどうだったか。 「木」は本作の重要なモチーフであるが、それとどのように関係付けられているのかも曖昧だったように思う。固定された舞台と合わせ、抽象的・象徴的表現が 多く見られた点も特徴である。例えば舞台前面の水槽の水が、国王の流す血を表現するのに使われる。王妃が「叡智」の宣託を下す場面、及びラストの「黄金の 頭」と王妃との会話の場面では、正面の白壁に映像が写されたが、いずれも(とりわけ後者は)物語との関連が曖昧で、不明快な印象を残した。

原作では、「黄金の頭」が権力を奪取する場面は多数の人物のひしめく、さながら政治劇の場面であるが、人物は限定され、台詞も省略されることで淡々と進展 し、抽象化された舞台・演技は、国王惨殺の衝撃を緩和させると同時に、権力を得た主人公の昂揚や、舞台の緊張を削ぐような効果をもたらした。王妃の磔の場 面等でも同様のことが言え、総じて演出は、役者の熱演を引き立てるよりもむしろ、これを舞台の上に孤立化させ、全体としての効果を高める方向には作用しな かった。殊更に原作を云々するのは好ましいことではないが、若い作者の溢れるエネルギーを、演出家が十分に捉え、表現することが出来なかったのではないか と思われてならない。

もとより、明らかに上演向きではない(と思われる)『黄金の頭』であり、この作品の世界を十全に表現するのは容易なことではないだろう。「古典」と呼んで 差し支えないだろうが、その呼称が似つかわしくないような作品である。連日、四時間の熱演を繰り広げる主演役者に拍手を捧げ、不平の口を閉ざすこととした い。

(『黄金の頭』 役者に拍手。 全体としては70点。)


2006年5月19日(金)20時
Jean Genet, Le Bagne, Athénée Théâtre Louis-Jouvet
Antoine Bourseiller 演出

簡 単な紹介。砂漠の中に建つ徒刑場。新しくやって来たサンテ・フォルラノの登場を機に、フェラン、ロッキー間の確執が進むと同時に、二人とフォルラノとも特 殊な関係に至る。フォルラノから受け取った針を使って、ロッキーは監守マルシェッティを殺害。だがフォルラノが死刑宣告を受けて、斬首される。
(映画シナリオでは、その後ロッキーに乞われてフェランが彼を殺そうとするが失敗、自らが自害する。)

おまけ 本作『徒刑場』は、舞台脚本一部および映画台本を纏め、遺稿として1994年に刊行された。


舞台全体を占める巨大なブロック壁。徒刑囚が回転させ、表裏で別の情景を成す。赤いギロチン。白地に赤縞の囚人服、麦藁帽子。

『徒刑場』について語る資格も力量も私にはない。けれどもそれがどのようなものなのか、一言触れておかなければならないだろう。

『徒刑場』の名の下に残され、作者の死後に出版されたものは、演劇脚本の断片(四場、1958年頃執筆)および、完全な映画シナリオ(52年から54年執 筆)である。映画制作は実現せず、すっかり形を変えた演劇版は完結することがなかった。演出家はその両者をもとに舞台を作り上げ、2004年にニースで初 演、今回アテネ座においてパリ初演となった。

従って、単純な上演ではない。残された断片から一個の纏まった作品を作り上げることがまず必要になる。演劇台本四場の後は、シナリオの展開に合わせ、そこから台詞を借用して独自の脚本を作成し、演出家はこれを舞台に乗せたわけである。

舞台全体を占める巨大な壁が重々しく、威圧的な「徒刑場」を表現する。壁の上部が通路になっており、高さを使った演出は効果的で、明暗を際出せた照明の 下、緊張感のある舞台が展開されてゆく。ブロック塀の隙間から囚人達が顔を出しフォルラノを冷やかす場面は特に印象的だった。役者の中では Désir Saorin 演じる所長役が存在感を際立たせた。ロッキー(Marc Olinger)も好演だが フェラン(Herv Sogne)とともに十分な場が与えられなかったのが残念なところ。台詞を発さないフォルラノ(Alexandre Ruby) を十全に演じるのは舞台で可能なのかどうか分からない。

力のある舞台で脚本を見事に立ち上がらせたと言っていいが、しかしジュネ自身の脚本は物語の始まりしか語っていない。四場を終えた時点で四十分ばかり。映 画シナリオをもとに纏められた後半は、フオルラノの処刑に至るまでの過程を駆け足に素描した感のあるもので、(ただでさえ分かりにくい)フェランとロッ キーの確執、言わばその犠牲としてのフォルラノの死の意義など、(少なくとも映画台本で語られた)物語の中心を十分に語りきれていたとは言い難い。さらに 問題は、映画版と演劇版とでは作品の性質が大きく異なり、演劇脚本は、ジュネ演劇独特の詩的言語の持つ美しさによって成り立っている点だ。映画台本を元に した後半とは、質的な齟齬が否みようもない。前半に比べ後半がいかにも物足りなく感じられたのは致し方ないところだろう。

だが、そのような非難は果たして正当であるのだろうか、とすぐに問い返さずにはいられない。元よりジュネ自身が完成させることの出来なかった作品である。それを舞台として実現させたという、その事実の意義こそが遥かに重要であるように思われるのだ。

ジュネが亡くなって二十年。今回の『徒刑場』の上演とは、生前親交の篤かった演出家による、作者に対する(最高の仕方での)オマージュに他ならない。 1947年、本アテネ座におけるジュネ最初の劇作『女中達』の上演は、観客に野次を飛ばされる散々なものだった。それから59年、同じ劇場で『徒刑場』は 暖かい拍手によって迎えられた。長い年月を経てここに「輪は閉じられ」たのである。

決してまだ「古典」ではなく、『徒刑場』が今後も場を変えて上演され続けるかどうかは分からない。だが(それ故に一層)貴重な上演であったことは疑いなく、今回は点数評価も差し控えて稿を閉じたい。

(願わくは、ジュネ生誕100年になる2010年を機として、採算度外視で『徒刑場』の映画制作が行われんことを。)

(『徒刑場』 ただ一言、ブラヴォー。)




【第八回】  コメディー・フランセーズの本領−『嘘つき男』、『恋は医者』/『シチリア人』

2006年4月16日(日)20時半
Corneille, Le Monteur, Comédie-Française, Salle Richelieu
Jean-Louis Benoit 演出

簡 単すぎる粗筋 ポワチエの学校を出てパリに出て来たばかりのドラントはクラリス、リュクレースの二人の女性に出会う。彼はクラリスに惚れるが、彼女の名を リュクレースだと思い込む。ドラントの嘘が原因で、クラリスの恋人アルシップは、間違ってクラリスとドラントが恋仲だと思い込む。ドラントの父ジェロント は息子を結婚させようと、クラリスと話を決めるが、ドラントは既に結婚していると言い逃れる。クラリスはリュクレースの名を借りてドラントと密会、ドラン トは彼女がリュクレースだと一層信じる。父親は改めてリュクレースとの結婚の話を進め、二人の女性と会話を交わすドラントは、遂に自分の誤解を悟ると共 に、リュクレースこそを愛していると思い直し、ドラントとリュクレース、クラリスとアルシップの二組の結婚が決まって幕。

おまけ 嘘によって繰り広げられるイリュージョンの世界は、まさしくバロックの名に相応しい。「政治的悲劇作家」というコルネイユ像は、今日既に過去のものとなったのです。

背景ホリゾントは一面の青空、時間の進展に合わせ、雲がかかり、月が出る。舞台は広く、装置は部分的。薄地のカーテンを頻繁に利用。衣装は時代物。

『嘘つき男』はコルネイユの劇の中でも、コメディー・フランセーズでの上演回数の最も多いものの一つということだが、実際、この脚本はとてもよく出来てい て(というのも偉そうだけれど)、飽きさせずに観る者を最後まで引っ張り、十分に満足を与えてくれるものだ。主人公ドラントのその場しのぎの嘘が周囲の混 乱を招き、彼はやむにやまれず次から次にと嘘をつきながら、最後は見事丸く収まってしまうという、展開の巧みさには感心させられる。

「嘘つき男」ドラントの役柄がここでは何より重要で、この人物に共感が得られなければ芝居は無残なものになるだろう。Loïc Corbery は実によく、嫌味のない演技で観客を惹きつけると同時に、人物の性格をもっともらしいものとして立ち上がらせた。いわゆる「召使」役のクリトン(Bruno Raffaelli)、頑固だが既に老いた父親ジェロント(Michhel Vuillermoz)といった型の決まった脇役を熟練の役者がそつなく演じれば、もう恐れるものは何もない。ドラントが心を揺らす二人の女性は、クラリス(Elsa Lepoivre, 白い肌)を勝気な、リュクレース(Léonie Simaga, 褐色)を内気な女性と、性格分けを際出せた。

恐らく、喜劇の生死は細部にかかっている。台詞の抑揚、間合い、身振りや表情の一つ一つが、台詞の効果を引き立たせもすれば、駄目にもしてしまう。窮地に 立たされたドラントの困惑が鮮明であれば、そこから飛び出す「嘘」も一層おかしく聞こえる、といったことだ。その点、今回の上演は、決して細部に手を抜い ていないという印象を与えるもので、実によく観客は笑った。

優れた脚本と十分な役者の力量。けなす点のない作品の批評はむずかしい。演出に関して言うならば、装置のない広い舞台に、薄いカーテンが頻繁に利用され た。風を受けて膨らみ、ふわりとなびくカーテンがさわやかな雰囲気を沿え、開放感ある舞台を生み出した。上品な、そして繊細でもある喜劇作品の雰囲気をよ く表し、幕間の音楽と合わせて効果を上げていた。

一点、興味深かったのは、終幕、クラリスからリュクレースへと乗り換えたドラントに、いささか躊躇いの残る雰囲気を与えて幕を閉じた点だ。ハッピーエンド に一点の曇りを残すのは、喜劇としては本道を外れるけれども、この躊躇いは、それまでのドラントの性格に適ったものであると同時に、一種独特の余韻を残し て味があった。

本年度、リシュリュー劇場、一番の出来ではないかと思わせる好演だったが、モリエールも含め、悲劇より喜劇の方が精彩良く見えるのは、今のCFの性格なのか、あるいは今日の時代の趣向なのかと、ふと思ってみたりもする次第。

(『嘘つき男』 えいやっと、95点。)


2006年4月20日(木)20時半
Molière/Lully, L'Amour médecin, suivi de Le Sicilien ou L'Amour peintre, Comédie-Française, Salle Richelieu
Jean-Marie Villégier et Jonathan Duverger 演出

内 容 『恋は医者』:リュサンドはクリタンドルに恋しているが、父セガナレルは結婚を許さない。女中リゼットはリュサンドが病気だと嘘をつく。セガナレルは 四人の医者に診察を頼むが役に立たない。そこに医者に扮したクリタンドルが登場、恋人の芝居を演じることで病気が治ると言い、その場で結婚式を挙げてしま う。

『シチリア人』:アドラストはシチリア人ドン・ペドロの奴隷イジドールに恋し、画家の振りをして家に入ると彼女と言葉を交わす。召使アリが別の女奴隷を連れて入り込み、衣服を着せ変え、アドラストはイジドールを連れて逃げ出す。

おまけ 『恋は医者』1665年、『シチリア人』1667年初演。国王自らバレーを踊る、宮廷祝祭スペクタクルの代表とも言うべき二作。

『恋は医者』にせよ、『シチリア人』にせよ、難しい話抜きのコメディー・バレーである。喜劇と歌とバレーを取り合わせ、宮廷の宴に花を添える、まさしくバロックな豪華絢爛のスペクタクルを前に、小賢しい批評は用を成すまい。

歌にせよ、踊りにせよ、それだけを個別に取り上げれば(目の肥えた観客であれば)疑問も感じるだろう(だからこそモリエール以降、こんな無謀な試みは二度と行われることがなかった)。だがそんなことを言っても始まらない。

『恋は医者』は時代物の衣装を基本にするが、舞台装置は玩具のような趣。一方、『シチリア人』の方は現代風にアレンジされていた。いずれも「喜劇らしい」 演技で、各役者が笑いを取るのを競い合っているような観がある。『恋は医者』のスガナレルNicolas LormeauやリゼットCécille Brune、『シチリア人』のアドラストLaurent Stockerなどを始め、皆が伸び伸びと演じているという感じであった。四人の医者も怪演というところ。そもそも両作品とも、笑劇の要素満載の至って軽 快な喜劇であり、二人の演出家がその「軽さ」をよく引き出していた点を評価したい。

各幕間に挟まれる歌やバレーは必ずしも脚本通りの設定ではないが、古楽器の演奏と合わせて、耳目を楽しませてくれるに十分なもの。『恋は医者』プロローグはとりわけ華やで美しかった。何よりリュリの音楽を古楽器の生の演奏で聴かせてくれることが嬉しい。

くどくどしいことは言わないでおこう。モリエールが残した作品の内、半分がコメディー・バレーであったことを考えれば、このジャンルが彼にとって決して 「余興」であった訳ではないことが分かるのであるが、「真面目な」喜劇の評価が高い分、従来、軽視されがちであったのは止むを得まい。バロック再興を遂げ た今日、モリエール/リュリのコメディー・バレーの上演が引き続くことを、ただもう願うばかりである。

それから、実のところ、コメディー・フランセーズは今日なお「モリエール劇場」の名に相応しいものであり続けている、ということを改めて思ってもみた。 (良かれ悪しかれ何時でも)上品に、さして奇を衒わず、堅苦しくなく生き生きと古典喜劇を上演する時に、CFの本領は発揮されるのかもしれない。

もちろんそんな感慨は、ごくごく個人勝手なものでしかないのだろうけれど。

(『恋は医者』『シチリア人』 贅沢さに乾杯 80点)


2006年4月21日(金)21時
Molière, L'Ecole des femmes, Théâtre Madelaine
Coline Serreau 主演・演出

粗筋 寝取られ亭主になることを恐れるアルノルフは、孤児アニエスを修道院に入れ「無知な」女性に育て、
結婚しようと計画する。しかし十日ばかり留守にした間に、アニエスはオラースに恋に落ちてしまう。事情を知らないオラースはアルノルフを打ち明け相手とし て、恋の進展を逐一語って聞かせる。アルノルフは二人の仲を引き離す努力をするが空しく、アニエスはきっぱりと彼を拒絶する。オラースの父オロントは息子 を結婚させようとやって来て、アルノルフはそれに同意するが、相手がアニエスであったことを知り、悲嘆に暮れて退場する。

おまけ 1662年初演。物議をかもした本作の批判に対し、翌年『女房学校批判』でモリエールは応えた。

舞台両側にたくさんの重たげなカーテンが吊るされ、場の進展に従って少しずつ落とされてゆく。衣装は時代物をアレンジしたもの。

急いで書き上げられると笑劇満載だが、「真面目」に書かれた作品は、喜劇を遥かに突き抜ける。民衆劇から深刻かつ普遍的なドラマまで、その幅の広さ、振幅 の激しさこそがモリエールの芝居を特徴づけるのだろう。『女房学校』は「喜劇」であるが、アルノルフは喜劇の人物とは言い難い。勿論、「コキュ」になるこ との恐怖症に凝り固まった彼は滑稽である。だがタルチュフのような悪役が不在で、医者のような諷刺の対象も存在しない場合、劇の焦点はただアルノルフだけ に絞られる。観客の意識が彼に寄り添えば寄り添うだけ、笑いは苦いものとなり、喜劇はドラマへと転化する。

Coline Serreau が満を持して舞台に載せたという今回の『女房学校』は、まさしくアルノルフの物語を「ドラマ」として捉えたものだ。女優が演じること自体、役柄の滑稽さを 減じさせるものであるだろうが、アルノルフの抱える人間的「弱さ」を彼女は前面に押し出した。アルノルフがアニエスを愛していることに疑いはない。ただ彼 女を独占したいという願いが、残酷なまでに裏切られるに過ぎないのである。女優の演技を通して伝わってくるのは、アルノルフの抱く孤独であり、寂しさで あった。

五幕を幕間無しの一時間四十分。台詞回しはとても早く、各役者は最大限の身振りと動きで役を演じ、舞台には一種の切迫した緊張感のようなものがあった。そこにおいて、オラース(Alexis Jacquin)は青年の生き生きとした情熱を好演し、アルノルフとの鮮やかな対照を描いた。それに比すれば、アニエス(Lolita Chammah)はもう一息というところか。

たくさんのカーテンを少しずつ落としてゆくという舞台演出はどうだったか。アルノルフの心情と呼応させたサンボリックな表現であったのだろうが、いささか曖昧に終った感がある。もう少し工夫が欲しいところだろう。

とは言え、台詞と身振りだけで勝負する、古典劇らしい「正当さ」を前に、余計なものはねだらない方がいいのかもしれない。一人の役者の渾身の演技があれば、演劇とは、それだけで完成されるものなのかもしれない。

(『女房学校』 好演アルノルフに100点。全体では80点ぐらい。)




【第七回】  リアリズム適応の様々−『かもめ』、『リア王』


2006年3月11日(土)21時
Anton Tchekhov , La Mouette, Théâtre Mouffetard
Virgil Tanase 演出・翻訳

粗 筋 女優アルカーディナは作家トリゴーリンを伴って領地に帰る。作家志望の息子トレプレーフは、恋仲でもある女優志望のニーナに、自作の芝居を演じさせる が、アルカーディナの茶々に怒ったトレプレーフは怒って芝居を中断、自殺を図るが未遂に終る。アルカーディナはトリゴーリンと共に出立。トレプレーフを恋 い慕うマーシャは、諦めて貧乏教師メドヴェデンコと結婚し、ニーナはトリゴーリンを追って出奔。二年の月日が流れ、再び領地に一同が揃う。トレプレーフは 新進の作家として名をあげているが、ニーナのことが忘れられない。彼女は女優になるが、トリゴーリンの子を死産の後、地方を回っている。夜、ニーナが訪 れ、今なおトリゴーリンを愛していることを打ち明け、絶望したトレプレーフは銃で自殺する。

五メートル四方ほどの舞台。中央に足場(ニーナの立つ舞台)、左右にハンモック。

チェーホフ劇はリアリズム、それもまた一つの先入見に過ぎないということ。それを、今回の上演は鮮やかに示してみせてくれた。

照明が点くと、舞台には全ての役者が登場している。ハンモックに寝そべるアルカーディナ(Loana Craciunescu)、膝をつくトリゴーリン(David Legras)といった風に。シャマラーエフ(Marc Nadel)の弾き鳴らすギターを伴奏に、他の者は動きを止める中、台詞を口にする人物だけが動き出しては、次々に台詞を他の人物に渡してゆく。従って人 物の退出はほとんど無く、同じ舞台、同じハンモックや椅子が、その都度の情景を担う。展開は歯切れよくスピーディーで、幕の移行の間も途切れない。

小劇場役者特有の演技、というものは確かに存在する。明確な身振り、抑揚のはっきりとした発話、感情の振幅を分かりやすく示す演技だ。現実模倣のリアリズムを土台としながらも、その種の演技には一種の様式が存在する。舞台に立ってトレブレーフ(Denis Barré)の芝居を演じるニーナ(Caroline Verdu)の演技では、その効果が二重に作用した。上述の演出と合わせることで、いかにも小劇場的、と呼びたくなる舞台が作られた。

チェーホフ芝居の人物といえば、淡々としたリズムの中に平静な言葉を交わすといったイメージを、ともすれば抱きがちではないだろうか。だが今回の舞台で は、台詞の交換は機敏、しばしば矢継ぎ早でさえあり、トレプレーフの苛立ちや、ニーナの感情の高ぶりも率直に演じられ、舞台は生き生きと展開した(ちなみ に、トリゴーリンは冷静さの内に純朴さを秘める人物として演じられた)。

最後の展開もなかなか巧みだった。ニーナの、かつての芝居の台詞の朗誦に、ポーリーナのロトの数字を挙げる声が重なり、渾然とした中、トレプレーフが椅子 に腰を下ろす、その瞬間の銃声。皆が動揺に騒ぐ中、トレプレーフの自殺を告げるドーンの台詞で、一気に幕。原作のシチュエーションや台詞をわずかに変える ことで、緊張を高めたまま、素早い展開で舞台を終え、印象的な幕切れを演出してみせた。

チェーホフを小劇場の枠組みの中にうまく嵌め込み、破綻なくこれを纏め上げた演出家の才は見事だ。間延びすることのなく、軽快で、激しいとも呼びうる本上 演は、すれ違いの愛と、嫉妬と、絶望とが横溢する『かもめ』の世界を、一つの新しい様式で、鮮明に立ち上がらせてみせたと言えるだろう。

ある観点からすれば、いかにもチェーホフらしくない、という印象が残らないではない。だが結局、「らしさ」とは、他者が勝手に押し付けるイメージでしかな いのだろう。小劇場といういわば制限ある場において、その制限を利用することで鮮やかに立ち上げられた今回の『かもめ』は、広い劇場と、金のかかる舞台を 備えなくても、魅力的なチェーホフの上演が可能であることを示してみせた。

(『かもめ』 新鮮さに拍手 80点)


2006年3月14日(火)20時
William Shakespeare , Le Roi Lear, Odéon - Théâtre de l'Europe
André Engel 演出、 Jean-Michel Déprats 翻訳、(André Engel, Dominique Muller 上演テクスト)

問答無用の傑作悲劇ゆえに、今回も粗筋紹介は省略。

大きな装置はない、広い舞台。全体は倉庫の中を模し、正面奥上方一面のガラス窓には、Lear Enteprise & Co の文字が読める。舞台左手上方も大きな窓。右手に足場、正面、左手に扉等。部分的に照明が当てられ、各情景を成す。三十年代頃の風俗、衣装。

大劇場において、有名な演出家と有名な俳優による『リア王』が売れない訳はなく、チケットの入手も例外的に困難だったのだが、決して評判倒れになることない、意欲的・野心的な上演であったことを、率直に認めよう。

目玉は少なくとも二点ある。一点は、舞台を(二十世紀前半頃の)現代に設定しながら、徹底したリアリズムを舞台・衣装・演技に適応させたことだ。リア王が ギャングの一家の首領であれば、娘婿は権力闘争に奔走する若頭となる。手紙の代わり電話が使われ、剣の代わりのピストル、マシンガンは驚く程の音を立てて 鳴り響き、拷問にあうグロセスター (Jean-Claude Jay) は目玉をくり貫かれ、血まみれになる。舞台全体は倉庫を模しているが、照明を部分に限定し、小道具を使って各情景を表現する手腕は巧みだった。

正面、左手一面の広い窓を使っての雷の閃光は、客席も含めた劇場全体を照らし、リア王がさ迷う荒野の場面では、舞台一面に雪が降った。インパクトと美しさにおいて、見るべきものがあったことを付け加えておきたい。

そして二点目。演出家、脚本家は原作に大胆に手を入れ、台詞を省略し(加筆もあったようだが正確には把握出来なかった)、場面を入れ替え、コラージュさな がらの手法によって、独自の『リア王』を展開させてゆく。例えば冒頭場面では、リアと娘一人一人との対面が、暗転を挟んで連続し、公の儀式としての権力の 委譲ではなく、一対一の親子の関係に焦点が絞られることになる。エドモン (Gérard Watkins) はエドガー (Jérôme Kircher) に倒され、二人の姉 (Anne Sée, Lisa Martino) も舞台上で死を迎えるなど、細部の変更を積み重ねることで、現代においては長すぎると感じられる原作を、(それでも長いが)二時間四十分の上演時間の中に 緊密に嵌め込み、緊張感を途切れさせない上演が可能になった。

リア王演じるMichel Piccoli は期待を裏切らない熟練の演技で、老人の孤独、狂気の中で子どもに帰ったかの純真無垢の様を鮮やかに示した。他の役者の中では道化役 Jean-Paul Farré が特に目立った演技を見せた。幾人かが一人二役を兼ねていたのは、しかし観客の理解を困難にさせることにしかならなかったのではないかと思われる。

徹底して現代の物語として描くことで、個人、あるいは家族の問題としての『リア王』が立ち上がってくる(もっとも、リアとコーデリア (Julie-Marie Parmentier) の関係は父娘というより、祖父と孫に近かったか)。そのことによって、逆に本作品のテーマの普遍性を明らかにすること。時代と場の隔絶したおとぎ話に時を 忘れるのでなく、人間のドラマに意識を惹き付けること。迫力ある舞台と、円熟の役者の力を添えて、演出家の意図は十分に達成されたと言えるのではないだろ うか。

惜しむらくは、役者の声が客席に十分に届かなかった点だ。御年八十のミッシェル・ピコリに、もっと声を出せというのも無理な話ではあるのだが、観客への配慮がほしかったところである。

(『リア王』 コーデリアの可愛らしさに個人的拍手。 90点)




【第六回】  「古典」とは何か−『反抗』、『町人貴族』


2006年2月2日(木)20時
Villiers de L'Isle-Adam , La Révolte, Athénée Théâtre Louis-Jouvet
Jean-Marie Villégier et Jonathan Duverger 演出

粗 筋 銀行家フェリックスと妻エリザベートは仕事をしている。真夜中12時、エリザベートは4年半に渡る夫婦生活を清算し、夫に離別を告げる。浮気を疑う夫 に対し、物質主義の世間に対する嫌悪と、精神世界への渇望、結婚してから今日までの忍従を告白し、エリザベートは旅立つ。(一場)彼女が本当に去ってし まったことに苦しむフェリックスはその場に失神。時が経ち、午前四時を迎える。(二場)戻って来たエリザベートが、自分には夢の実現が不可能であると悟っ たことを独白し、忍従の生活を続けることを受け入れ、仕事に戻る。目覚めたフェリックスは彼女の反抗が一時の発作に過ぎなかったと安心する。エリザベート は一言、「可愛そうな人」(Pauvre homme !)と漏らし、幕。(三場)

おまけ 1869年執筆、翌年ヴォードヴィル座で上演も、5日で取りやめ。ブルジョア批評家から「理解不能」と酷評を受ける。行為を排し、夢および精神性 を訴える本作、及び作者の諸作は、反自然主義的、前衛的である点、象徴主義演劇の先駆けとも言え、後にサンボリストから高く評価された。

正面奥に銀行の窓口(内側)、舞台左右に大きな机、夫妻は背中を向け合って仕事をしている。蝋燭ではなく電灯を使用し、およそ50年代頃の雰囲気。衣装も同様。

「古典」の定義が、一種の文化遺産として継続的に受容され続けるものであるとするならば、古い作品が全て「古典」と呼べるわけではない。しかし忘れられた 作品の再発見、再評価という営みがなければ、「古典」のレパートリーは固定し、硬直化を免れない。上演が絶えて久しい作品を取り上げる演出家の見識と意欲 が、古典の世界を刺激することは重要であり、その試みを受け入れるアテネ座のような場の存在の貴重さも、また言うまでもないだろう。

ヴィリエ・ド・リラダンが戯曲も多数残したということを知っている者は、今日専門家を除けば少ないに違いない。近年において『反抗』の上演が皆無だったわ けではないが、半ば忘却の内にある本作を舞台に乗せたことをまずは評価したいし、実際、再評価に値する意義を持った作品であることを、十分に示す舞台だっ た。

幕が上がると同時に長いサックスの演奏。背を向けあった二人の人物は、仕事の手を休めずに長い間合いを取りながら言葉を交わす。典型的なリアリズムと言っ ていいが、ほとんど長過ぎるとさえ思わせる間の長さは、意図的なものに違いない。そこには一見何の問題もない平和な夫婦の会話がある。エリザベートが「反 抗」の意志を隠していることを疑わせるものは何もない。けれども彼女は既に決意しているのであり、遂には、事務的とも言える冷静さの内に夫に離別を宣告す るに至る。

Sandrine Bonjean はあくまで忍従に耐え、苦しむ女性としてのエリザベートを演じた。彼女の反抗は決して激越なものではなく、抑制の内から嫌が上にも湧き上がる、ぎりぎりの最後の抵抗である。Emmanuel Guillon 演じるFélix は、ブルジョアの代表であるのは自明ながら、愚鈍な俗物ではなく、(男性としての)権威または威圧を当然のことと捉えている人物として描かれた。

三場、舞台中央に座ったエリザベートのモノローグ(脚本とは設定が異なる)では、彼女は微笑を浮かべながら、夢の実現が不可能であったことを物語った。悲しみを顕にしないことによって、彼女の内心の絶望がより切実なものとして伝えられたと言える。

作者を少しでも知る者には、エリザベートの真に「生きる」こと、「夢見る」ことへの希望が、功利主義的なブルジョア社会への反抗であり、純粋芸術への志向 の表明であることは明瞭だ。だが本上演において、演出家はこのドラマから、女性の自立というテーマを前面に押し出した(「イブセンよりも早く」という言葉 がパンフにも読める)。それによって、高踏芸術の理想といういわば特殊な命題は、より普遍的、そして今日的(となお言えるだろう)命題を包摂することで、 現代の観客になお力ある表現性を獲得するに至った。

それを曲解と退ける必要はない。ヴィリエがフェミニストだった筈はないと断言して間違いないだろうが、そんなことは劇場で問題になることではない(エリザベートの挫折が、十九世後半、女性の自立が困難であった事情を反映していることはありえるにせよ)。

現代的視点から古典を捉え直すとは、我々の現在の関心を古典のテクストに読み取ることである。そして多様な解釈を容認すればこそ、その作品は「古典」の名に値しよう。

このような意欲的といっていい試みが常時行われているという点に、フランス演劇が今なおしっかりと息づいていることを思えば、その事実に感嘆するよりない。

余計ではあるが、二場、フェリックスが失神している間に時間が流れる場で、シューベルトの歌曲が使われたのは良しとしても、台詞の合間に使われたサックスの音響に関しては、今ひとつ納得出来ないものがあった点だけ、付け加えておくことにする。

(『反抗』 両役者の好演を称えつつ 85点)




2006年2月15日(水)20時半
Mollière - Lully , Le Bourgeois gentilhomme, Théâtre de Paris
Alain Sachs 演出

簡 単な粗筋。成り上がりの町人ジュールダン氏は、貴族の教養を身につけたいと音楽・ダンス・武術・哲学の教師を招き講釈を受け、仕立て屋に最新流行の服を作 らせる。(一・二幕)。貴族ドラントはジュールダン氏に無心し、氏は妻に責められても聞き入れない。娘リュシールはクレオントと恋仲。双方の従者、コヴィ エールとニコルも同様。ささいな諍いの後、クレアントは結婚の承認を求めるが、彼が貴族でないのを理由にジュールダン氏は退ける。ドラントは公爵夫人ドリ メーヌ(ジュールダン氏が恋慕っている)を連れて食事に来る。(三幕)コヴィエールは策略を立て、トルコ人の扮装をして登場。(クレオント扮する)トルコ の王子がリュシールを妻に求め、ジュールダン氏に「ママムーシ」の称号を授ける。(四幕)リュシールとクレオントの結婚が決まり(ついでにドラントとドリ メーヌの結婚も)、最後のバレーへ。(五幕)

おまけ 1670年三幕で初演、翌年、五幕に改変して出版。12本あるモリエール・リュリ合作のコメディー・バレーの中でも一番の傑作とされる。「真面目 な」喜劇(『人間嫌い』『タルチュフ』)に対して、コメディー・バレーは文学的価値の低くいものと長らく見なされがちだったが、近年再評価が顕著。


スポーツ用品店の倉庫らしき場。ガラスの格子窓、靴箱の山。水色に統一され、大きなmj(ムッシュー・ジュールダン)のロゴマーク。衣装は現代一般の物。脇役のそれはしばしば装飾的。

20世紀後半におけるバロック文学の(再)発見、再評価(コルネイユの『舞台は夢』等)、また古楽器の研究が進展する中で、モリエール・リュリのコメ ディー・バレーの上演も近年盛んであるようだ(昨年度から引き続き、本年度もコメディー・フランセーズでの上演がある。いずれ紹介したい)。

だがそうした裏事情とはほとんど関係なく、『町人貴族』は常にフランス人に愛されつづけてきたし、これまでにも多くの斬新な演出を生み出してきた。「モリ エールの台詞は全てそのまま、リュリの音楽はほとんどそのまま」、舞台を現代に、ジュールダン氏をスポーツ用品の会社社長に置き換えての今回の上演は、だ から格別に新しいという訳ではない。だが演出家の創意工夫は随所に行き届き、理屈抜きに十分に楽しめる好舞台だった。

主演 Jean-Marie Bigardは、気(前)がよく、いささか頑固で怒りっぽく、教養には欠けるといった、いかにも中小の会社社長にいそうなタイプをそつなく演じ、始終観客 の笑いを呼んだ(賢妻ジュールダン夫人はCatherine Arditi)。音楽の教師はさながらロック歌手、ダンスはヒップ・ホップ、武道の教師は剣道の竹刀を持ち、哲学の先生は空手を使う。真っ赤な燕尾服の尻 尾が反り返ったジュールダン氏の衣装はそれだけで笑いを招き、侯爵夫人の衣装は奇抜なトップ・モードといった風。

現代の物々に溢れる中で、台詞は全て十七世紀というのも、考えてみればおかしな話なのだが、舞台においてはもちろん、そんな不自然さを観客が受け入れるの に何の支障もない。各幕間のバレー(あるいはダンスと呼ぶべきか)が華々しく喜劇に色を添え、中でもバロック音楽をアレンジ一つで、ヒップ・ホップのダン スに変えてしまう手際には感心した。ここだけはオーソドックスのトルコ人達による舞踊は、きらびやかな衣装とあわせて、中でも見応えがあった。なお音楽は 生の楽器も使用したが、多くは音響によった。

理屈も何もない。幕間を合わせて二時間半、始終笑い通しであり、観客の満足は、これまで観て来た芝居の中で、恐らく一番賑やかだった幕後の拍手喝采にはっ きりと現れた。スタイリッシュな演出家の手腕はもちろん評価に値する。だが私が何より感心したのは、『町人貴族』が今なおいささかも古びることなく、現代 フランス演劇の中で精彩を放っているという事実のほうだ。大劇場で連続百回に渡る公演が可能なのは、それだけの集客が確実に見込めるからに他なるまい。つ くづくパリという街は特別な場だと思う。

子ども連れの観客が格段に多かった点も興味深い。親は教育目的かもしれないが、『町人貴族』に殊更道徳を求めるのは酔狂だ。この街では、観劇という習慣は こういう場所から身についてゆくのだろうと思う。そして何より、子どもから老人まで誰もが文句なく楽しめる、それが『町人喜劇』であり、モリエール劇の生 命力の源もそこにこそあるだろう。

古典演劇がこの国の文化・社会(それが特定の階層に限定されるものであれ)の中にしっかりと根付いていることを認識させられる、そんな上演であった。

余談だが、強い雨の降る帰り道、ラファイエットやプランタンの前で、毛布や寝袋に包まって眠る人を何人も目にした。そこにある現実を目にして感慨を抱きもしたのだが、ここで語る必要はない。ただ、まさしく「舞台は夢」のようなものだと、しみじみと思った。

(『町人貴族』 そつない、ウェル・メイドぶりに拍手 80点)




【第五回】  「古典」へ至る道−『おお麗しの日々』、『犀』


2006年1月6日(金)20時
Samuel Beckett, Oh les beaux jours, Comédie-Française, Théâtre du Vieux-Colombier
Frederick Wiseman 演出、2005-2006年度初演。

内 容紹介 一幕。腰まで砂に埋まった年配の女性ウィニーは、ベルの音で目覚め、就寝の時までを過ごす。身づくろいをし、回想に浸り、小山の背後に隠れる老年 男性、ウィリーと言葉を交わす。二幕においては首までが砂に埋まった中で、ウィニーの独白が続く。「麗しの日が、また一日」の台詞が繰り返される。ウィ リーが姿を現し、小山を登ってウィニーに近づこうとするが挫折、二人が顔を見合わせる中、終幕。

おまけ 仏語版初演は1963年。作者と演出家が対立したりとなかなかややこしい上演史を経て今日に至る。『ゴドー』に近似した構成を持つ本作は、ベケット作品では分かりやすい部類に入る?

鮮やかな青のホリゾント。ピラミッド型の小丘、斜めに切られた地平の向こう側にウィリー。ウィニーに強い照明が当てられ、鮮烈な印象を与える舞台。ベルの代わりにやかましいブザー。音楽は一切なし。

ベケットが亡くなって十六年。彼の作品を「古典」と呼ぶのに違和はないけれど、早々と古典のレッテルを押し付けることには、功罪相伴うものかもしれない。 それはともかく、実存や不条理といった用語をひとまずは忘れたところから、ベケット作品を眺めることが今日の私達には許されるのだし、そこにおいて初め て、彼の作品の「古典」としての真価が問われることになるのだろう。

一幕においては上半身、二幕にいたっては顔と声のみしか表現手段を許されない本作品においては、何よりウィニー役の女優の成熟度と力量に、作品の成功が懸かっている。御年お幾つか正確には知らないけれど、Catherine Samie は思索的かつ、どん底の状況におかれながらなお希望を失わない溌剌としたウィニーの姿を、起伏に富んだ演技、豊かな表情と繊細な身振りをもってよく表現し、観客を十分に惹きつけた。さながら瀕死の様相のウィリー役、Yves Gasc は悲哀と滑稽との渾然とした老人の姿で、終幕にめりはりをつけ、好印象の内に幕を閉じたと言えよう。

従来の上演では、二幕目において、ウィニーを更に地中に埋めるという演出が通例だったところ、本上演においては、ウィニーの位置はそのままに、小山自体が 高さを増して、彼女の首までを埋める。説明書きを読まなければ分からない些細な相違だけれども、そこに込められた演出の意図は興味深い。(小丘の暗示す る)嫌が上にも侵食する何か(「時」や「死」と解釈するのはもっとも明快な答えではある)の存在は変わらないにしても、それに対する人物のあり方は積極的 なものとして提示されるのだ(逆に言えば、それだけ「何か」の存在が不可避的にもなる)。実際、舞台の中央に高々と聳えるウィニーには存在感があった。そ こで彼女が繰り返す、「おお麗しの日が、また一日」の台詞は、そこに込められたアイロニーを突き抜けて、文字通りの意味での人生賛歌の様相を帯びる。不条 理な世界に対する異議申し立てではなく、そこになお「残された希望」の表明としての、決して陰鬱ではない『おお麗しの日々』。終幕後の好印象はその辺りに 由来するものであろう。

制限された舞台、執拗なまでに書き込まれるト書き、劇的な筋も行為も存在しないベケット劇は、これに新たに挑もうとする演出家にとって難しい作品であるに 違いない。しかし新しい試みの不可能なところに、「古典」の存続は可能だろうか。今日、そしてこれからの上演が、ベケット作品にとって真の「古典」への長 い試練の場であるならば、今回の上演は、一つの肯定的回答を示して見せた。

(『おお麗しの日々』 熟練女優に労いを込めて 90点)


2006年1月26日(木)20時半
Eugène Ionesco, Rhinocéros, Théâtre de la Ville
Emmanuel Demarcy-Mota 演出、再演。

下手な要約 呑み助サラリーマン、ベランジェはカフェで友人、ジャンと口論。そこに犀が登場(舞台には現れない)で店の主人達も合わせて大騒動。ネコが踏み潰されて更に大騒ぎだが、いつしか議論は犀の角が一本だったか二本だったかで紛糾。(一幕)

 ベランジェの勤める事務所。犀の実在を巡ってデュダールとボダールが議論。犀に追われたブッフ夫人が駆け込んで来る。犀が階段を壊して大騒動。夫人は、 犀が夫であることに気づく。消防車に救助されて一同退場。(二幕一場)ジャンの部屋に訪れたベランジェ。ジャンは具合が悪いと寝込んでいる。犀について議 論。自ら犀に変身してゆくジャンは、犀を賞賛し、ベランジェは四方を犀達に取り巻かれる。(二幕二場)ベランジェの部屋。訪れたデュダールと議論後、同僚 のデイジーが尋ねてくる。皆が犀に変身したことを知ったデュダールは転向し、犀の群れへ。ベランジェとデイジーは愛し合うが、街中が犀に溢れることを知っ たデイジーも、遂にベランジェを捨てる。一人残されたベランジェ。一度は犀になりたいと思うが、不可能なことを知り、最後まで抵抗することを決意。「俺は 降伏しない」。Je ne capitule pas. (三幕)

おまけ。60年、61年、ジャン‐ルイ・バローの演出・主演がフランスでの最初の上演。冷戦下におけるコミュニズム批判を意図する、作家の「社会参加」が明確な作品。イヨネスコがルーマニア出身なのは、周知の事。

抽象的な舞台で説明するのが難しすぎる。スポット・ライトで人物を追う照明が効果的。オーケストラ・ピットの三人が、始終効果音を鳴らす。足音、うめき声等。

凄い舞台だった。と、身も蓋も無い驚きの表明から始めたい。
リアリズムに則らない演出を何と名指していいのかよく分からないが、一種の「様式化」と呼んでおきたい。開幕からテンションの高い状態、スポット・ライト の中を縦横に行き来する役者、絶えず鳴り続ける不協音、そして犀の足音とうめき声。二幕でも同様、ここでは徐々に傾きを増していく舞台装置、崩れ落ちる机 や椅子がカタストロフの状況を現出させる。二幕二場ではほとんど闇の中、Hugues Questerは自らの演技だけで犀への変身を演じた。好演。役者のテンションは常に最大限で、ジャンとベランジェの対話も大声で叫ばれるが、とにかく異 様に熱気ある濃密な舞台だったとでも言うよりない。

三幕は群れ成す犀をいかに処理するかが重要なポイントだが、作者の執拗な指示を無視し、行進する人物達を一度登場させるだけに留めた。ラストは、それまで絶えず鳴り響いていた音響を止め、無音の内にベランジェの独白が演じられた。Serge Maggiani の熱演も好印象を残すものだった。

これがイヨネスコかと驚くこと必至の、緊張度の高い、激しく濃厚な舞台であり、斬新な演出家の豪腕ともいうべき解釈に脱帽だが(それだけでも十分なんだけど)、結局のところ本演出が如何なものであったのか、驚きのあまり判断するのが難しい。

原作では明らかに、一幕および二幕一場は喜劇である。犀の存在が少数派である限り、人間の側は安泰であり、従って観客も暢気に笑っていられる。ところが三 幕においてあれよあれよという間に周りが犀で埋め尽くされ、ベランジェ一人が最後の人間になるに至り、状況は悲劇へと大転換を果たす。ジャンルの混交はイ ヨネスコの特徴と人も言う。

今回の演出におては最初から事態はのっぴきならない危機的状況であり、二幕の激しい展開もそれに拍車をかける。従って、イヨネスコが目論んだようなシチュ エーションの劇的な転回よりむしろ、終始一貫して悲劇的状況が深刻化する過程を追うことになった。ラストは主人公の孤立をより際出せるものであったと言え よう。結果的に、展開が平板化した憾みなしとは言えないが、しかし新しい解釈を力強く提示して見せた点を評価しないわけにはいくまい。犀を出さないという のも、実に大胆だ。

60年、ジャン‐ルイ・バローの演出・主演で有名な本作は(その後の東欧諸国での上演も含め)、冷戦下の時代状況と切っても切れない関係にあり、犀は「全 体主義」の象徴であると、お決まりのように注釈される。必然的に時勢の変化を受けて、近年『犀』の上演は稀になった。

あえて本作を舞台に乗せる演出家の意図とは、そのような文脈から本作を切り離すことにあった、と即断することはあるいは軽率かもしれない。だが時代的コン テクストと距離を置くことで、本作それ自体の真価が顕になるだろうし、それがなければ演出家も本作を選びはしなかっただろう。

今回の演出は、その圧倒的な迫力でもって、「恐怖」と、それがもたらすパニックを舞台の上に描き出した。犀は何かの象徴であるといった合理的解釈以前の、 我々が潜在的に抱える不安・恐怖・孤独をまずもって具体化して示すこと。そしてそこに何よりまず今日なお失われていない、原作のインパクトがあるというこ と。解釈など、恐らく二の次なのだ。

そして実際のところ、何も「全体主義」やナチズムばかりを問題にする必要のないことを、本上演の迫力が明確に教えてくれる。あえて言うならば、問題は他者 とのコミュニケーションであり、その不可能性にあるとでも言うか。その限りで『犀』の射程ははるかに遠く、その問題提起は普遍的なものだ(しかしそれも所 詮一つの解釈だ)。

いずれにせよ、古典再解釈の好例であることに疑いなく(実際、好評故の再演である)、このような意欲的な試みが続くならば、イヨネスコ(没後十二年)もま た古典への順当な道を歩むだろうし、だからと言って四十年やそこらで、そう簡単にアクチュアリティを失わない点にこそ、「古典」としての価値があるのでも ある。
優れた演出家の存在抜きに古典の存続はありえないという、今日あまりに自明なことを、深く納得させてくれる好上演であった。

(『犀』 とにかく熱い! 85点)



【第四回】 「驚き」の重要さ−『恋の不意打ち』、『白鳥の歌・プラトーノフ』


2005年12月18日(日)15時
Marivaux, La Surprise de l'amour, Théâtre National de Chaillot, Salle Gemier
Jean-Baptiste Sastre演出

簡 単な粗筋 恋人に裏切られたレリオは従者アルルカンとともに田舎に引きこもり、二度と女性に関わらないと誓う一方、レリオの女中ジャクリーヌが、伯爵夫人 お抱えの庭師ピエールと結婚したいと思い、伯爵夫人に働きかけ、夫人はレリオと対面する。レリオは女性の不実を、夫人は男性の虚栄を非難しあう。夫人は今 後お互いに顔を合わせる必要はないと、手紙をレリオに届けさせるが、その動機を詮索するレリオは伯爵夫人の真意を知りたいと考える。レリオと共に女性を拒 む決意をしたアルルカンは、しかし伯爵夫人お付きのコロンビーヌと恋仲になり、主人二人を結びつけるべく、コロンビーヌと共に画策する。夫人がなくした肖 像画を機縁にレリオと夫人は対面し、レリオは自分の抱く愛を告白するに至る。

おまけ 作者自身の言葉によれば、二人は初めから互いに愛し合いながら、自分の感情に気づいていない。ひたすら持って回る「マリヴォダージュ」とは、言葉 と本意との乖離がポイントだが、本作においては肝心の自分自身の感情を当人が一番分からない。「自分がどこにいるのか分からない」というレリオの台詞が端 的にそれを示す。要するに台詞だけ読んでいると、彼等が何を言ってるのか、実に分かりにくいのです。難しい。

壁、柱がむきだしのままの舞台。半透明のカーテンに背景画。装置はなく椅子が数脚のみ。衣装は普段着に近い現代物だが、その上に防水布からなる上着、マント等を着用。
 
マリヴォー劇の今日的面白さは色々あるけれど、こと演出という面から考えた時、観念的ともいえる高度に抽象的な台詞劇には、実は演出家の介入する余地が多 分に存在する。今日フランスにおいて(あるいは世界的に見ても)マリヴォーが意外に頻繁に上演されている理由の一端は、演出家の自由な想像力を刺激するも のが、彼の脚本に秘められているからかもしれない。
 
とは言え、今回の演出は一見して地味なものであった。簡素以前に何もない舞台、音楽も一切なく、照明もまた僅かな変化に留まった。役者の演技も控えめと 言ってよく、大仰な身振りも見られない。そこにおいて注目すべきなのは、レインコートのような白い布地からなる上着、マント、あるいはズボンを、各役者が 頻繁に脱ぎ着する動作である。一度の観劇でその変化を正確に把握するのは困難だが、人物の心情をサンボリックに表現したものであるのは間違いない。見た目 にも重たげな衣装は、二度と異性を愛さないという決意、他者に関わることへの心理的抑制を表す。いわば一種の仮面であり、最初各登場人物がまとう上衣は、 感情が率直に表明される度合いに比して脱ぎ落とされていき、改めて纏われもしながら、最終的に全てが脱ぎ捨てられるに至る。
 
抑制された役者の演技と合わせて、このような演出の意図するところは、自己の意思・感情と、対他的な(恋愛)関係との間を揺れ動く各人物の心情の推移を浮き彫りにする点にあっただろう。レリオ(Vincnt Dissez)、伯爵夫人(Julia Vidit)は自己の真の感情を疑い、苦悩する若者として演じられた。劇の主題が各人物のうちに内面化されることで、舞台は表面的には淡々と展開し、終結する。脇役として積極的に恋愛を肯定するアルルカン(Simon Eine)とコロンビーヌ(Eléonore Hirt)を老年の役者に配したのは、この劇を青年期特有の自意識と虚栄心の問題として提示するためだったろうか。
 
本作の主題を的確に措定し、これを明示してみせた点で演出を評価するにしても、一方でいささか実直、地味に過ぎたのでないかという印象が拭えない。突き詰 めれば脚本そのものの問題になるけれども、展開が平板になった感が否めない。抑制された演技で観客を十分に惹き付けるには、役者の力量もものを言うだろ う。

前回までの論旨に引きつけて言うならば、「真面目さ」がここでも問題となる。モリエールの際に指摘し、これは私の好みの問題に過ぎないかもしれないが、喜 劇を「真面目」に上演するには、それなりのリスクがつきまとうものだ。端的にそれは観客の満足度に還元される。最終場、間を多く取った場面で、観客席一列 目に座ったご老人の鼾が鳴り響いたのには愕然とさせられたが、ある意味では率直な反応だったのかもしれない。原作には最後にdivertissement という一種の余興が付いているが、今回上演されなかったのもごく自然なこととして頷けるけれど、しかし原作のトーンは別物であることも確かなのだ。
 
マリヴォー初期の傑作とされながら比較的上演されることの少ない本作を取り上げた意欲を買いつつも、いささか趣向に工夫が欠けたのではないかと思う。誰もが手に取ることの可能な「古典」という脚本を前に、観客は「驚き」をこそ求めるものではないだろうか。

(『恋の不意打ち』誠実さは認めるけれども 60点)


2005年12月22日(木)19時
Tchekhov, Chant du cygne, Platonov, Théâtre National de la Colline, Grand Théâtre
Alain Françon 演出。(Texte français : Françoise Morvan et André Markowicz)

超簡略な粗筋 『白鳥の歌』 終演後の無人の舞台。老役者スヴェトロヴィドフは、演技に費やしたこれまでの人生の空虚さと孤独な老境を嘆くが、プロンプ ターのイヴァニッチ相手にシェークスピアなどの演技をする中に喜びと活力を取り戻す。つかの間の幸福の時の後、再度現実に返って舞台を後にする。

『プラトーノフ』 寡婦アンナの息子セルゲイとソフィアの結婚披露の宴。教師プラトーノフはかつてソフィアと恋仲にあり、再会の後、彼は彼女にやり直しを 求める。一方でアンナはプラトーノフを誘惑する。(一、二幕)時を空けて、学校の一室。プラトーノフの妻サーシャは子を連れて家出している。夫に真実を打 ち明けたソフィアはプラトーノフに駆け落ちを迫る。セルゲイの命を受けて農夫オシップはプラトーノフ殺害を試みるが、そこへサーシャが子どもの病気を伝え に訪れる。ソフィアとの関係を知った彼女は絶望して去る。(三幕)二日後、アンナの家の書斎。ソフィアはプラトーノフの不実に苦悩し、アンナはプラトーノ フとソフィアとの関係を知らされる。プラトーノフが現れ、セルゲイ、アンナと言い合い、サーシャの兄トリレツキーが彼女の自殺未遂を告げる。絶望したソ フィアがプラトーノフを撃ち殺す。(四幕)

おまけ。『プラトーノフ』は作者18歳頃の作品。21歳の頃、上演を試みて修正、大幅な削除。1923年に初出版。56年初演(作者修正後の縮約版)。フランスではエルザ・トリオレ訳をもとに繰り返し上演された。メスギシュ、ラヴォーダン等。

『白鳥の歌』はほぼ完全な闇の中。道具は椅子のみ。『プラトーノフ』はリアリズムに則った舞台、道具。衣装もこれに準ずる。
 
モスクワ芸術座を引き合いに出すまでもなく、チェーホフ劇はリアリズムを原則とし、その限りではマリヴォーについて述べたような意味での、演出家の介在の 余地は少ないのではないかと思う。今回の舞台も、装置や衣装を時代物に統一し、本当らしさを尊重する演技と合わせ、ごくオーソドックスな上演であったと、 ひとまずは言えよう。
 
『白鳥の歌』は30分ばかりの短い一幕物だが、終始ほとんど何も見えない暗闇の中で演じられた。観客にはただ役者がそこにいることが分かるだけだ。そこに おいて、役者は台詞だけで心情の変化を描き出さなければならない。過ぎ去った過去の後悔と孤独な現在の悲しみ、一度は悲嘆に暮れながら、演技という虚構の 中に、つかの間の真の生命を見出す。老役者演じるJean-Paul Roussillonはその悲哀から希望への変転を、抑えた演技の内によく表現した。もう少し起伏を鮮明に打ち出してもよかったのではないか、と思いもす るが。
 
チェーホフが18歳の頃に書かれた(とされる)『プラトーノフ』は、後年の有名な諸作と比して、あまりにも「チェーホフらしくない」作品だ。端的に言ってメロドラマであり、暴力場面があり、愛憎劇の最後に主人公プラトーノフは愛人に殺害される。

かつて長すぎることを理由に「上演不可能」とさえ言われた本作を、作者の手によって省略される以前の段階の脚本(新訳に基づく)で舞台に乗せること、その 試み自体が重要であり、評価に値しよう。台詞回しをとても早くすることで、(決して急ぐわけでないながら)テンポよく進行させ、二度の幕間を含め3時間 強、弛みない上演であった。
 
本来、本作は「ドラマ」であるはずだが、しかし本上演において、全体を通して観客が笑い続けたということに留意しておきたい。プラトーノフは、自尊心を保 ちながらも確固たる意志を持つことが出来ずに、女性関係に翻弄されるがままの、いわば「挫折した知識人」の典型(「余計物」というロシア文学の伝統)だ。 Eric Elmosninoはその役柄を説得力ある形で具体化して見せた。しかしながら、この劇においてはプラトーノフのみならず、男性は皆無気力、挫折した者で あり、女性は皆半ばヒステリー気味である。『プラトーノフ』は後年のチェーホフ劇と異なり、リアリスティックな現実描写を突き抜けている。描かれるのは社 会の諷刺画であり、そこにおいて、過剰なメロドラマはいわばパロディと化す。作者の意図がどこにあったにせよ、観客の前にそのようなものとして舞台は現れ た(そのような演出が成されたということでもある)。

脚本を読むだけでは掴みにくい、作品世界全体に対して距離を置く視点。観客の笑いはそこから生まれるごく正常な反応であったのだろう。深刻なドラマと観客 の笑いとの一見しての齟齬は、古典(悲)劇においては明らかな時間的離反が原因だが、ここにおいては、それが作品世界への批判的視線として機能する。後年 のチェーホフ作品を鑑みるならば、『プラトーノフ』の内には既に、内面的ドラマへの共感を超えた、観客(そして作者)の視線のありかたを見て取ることが、 出来るのかもしれない。チェーホフが生きた十九世紀末は、ドラマの成立が不可能となった時代であった。
 
完成度には疑問付きの『プラトーノフ』は、けれどチェーホフ劇全体を問い直す上でも意味があり、今回の「正当」な上演も、その正当さ故にかえって鋭く、作品の持つ問題性を浮き彫りにしたと言えよう。
 
最後に『プラトーノフ』だけでも十分に長い上に、あえて『白鳥の歌』を組み合わせた演出家の意図について付言。『白鳥の歌』が演技と実人生、虚構と真実の 関係(及びその逆転)を問う作品であるならば、『プラトーノフ』における理想(の挫折)と現実、あるいは他者が見る「私」と、真の自我との離反といった テーマに、前者の問題を重ね合わせる試みでもあっただろうか。演技という虚構の中にこそ真実が存在するならば、プラトーノフの挫折とは、虚構の世界を生き 切れない点にこそあったか。

(『白鳥の歌、プラトーノフ』2本で5時間弱は長い!でも許す 85点)




【第三回】 正統であることの難しさ −『ル・シッド』、『ロミオとジュリエット』

2005年11月20日(日)14時
Corneille, Le Cid, La Comédie-française, Salle Richelieu
Brigitte Jacques-Wajeman演出、2005年新作。
 
粗筋 ドン・ロドリーグとシメーヌは相愛の仲であるが、それぞれの父親が結婚を承認した後、二人の間に諍いが生じ、シメーヌの父はロドリーグの父、ドン・ ディエーグに平手打ちを食わせ、ディエーグは老年故に侮辱を雪ぐことが出来ない。彼は息子に敵討ちを命じ、ロドリーグは愛を取るか、名誉を取るかの選択を 迫られ、せめて名誉を救う道を選ぶ。彼は復讐を遂げた後、シメーヌに自らを裁くように請うが、彼女は拒む。死を求めるロドリーグは戦場に赴くが、武勲を得 て戻り、ル・シッドの称号を得る。武勲に免じて彼を許すように取り計らう王の命を拒んだシメーヌは、果し合いの勝者に自らを託すことを宣言し、ロドリーグ は、ドン・サンシュと決闘を行う。戻ったサンシュを目にしたシメーヌは、ロドリーグの死を信じ、自らの変わらぬ愛を打ち明け、サンシュとの結婚を免じるよ うに請い願うが、王は誤解を解き、二人の結婚を承認する。

おまけ コメディー・フランセーズは最近二十五年以上、『ル・シッド』を上演してこなかったというのは、意外な事実ではなかろうか。あるいは伝統の重みが、安易な上演を許さないのでもあろうか。『ル・シッド』は、やはりフランス古典劇のシンボルと言えよう。

オ レンジ色の太い柱、左右に出入り口、開幕時の唐草模様風の格子窓と合せて、スペインの王宮と理解される舞台だが、とても簡素。装置転換はなく、白、黒の カーテンを利用して場の転換を示す。照明は左右より、時に人物の長い影を作る。夕景の赤い光が舞台の色と相まって一際美しい。衣装は時代物。

言うまでもなく『ル・シッド』はフランス古典劇史上、最も有名なもの(の一つ)である。初演の華々しい成功と、それが引き起こした論争の経過は、フランス 古典劇の規則と様式が確立される過程そのものに他ならない。コルネイユ自身は後年、規則を遵守する形に作品を改変し、悲劇と命名し直すが、今回、演出家が 採用したのは初版、「悲喜劇」の脚本である。初版において規則に捉われない、コルネイユの独創性がより顕著に現れているというのが、今日一般的な見解でも ある。

モリエール上演に際し、古典的様式と現代的演出との関係を問題にした。『タルチュフ』が古典を現代に再生させることを目論見るものだったとすれば、今回の 上演は逆に、古典的な様式美を堅持し、古典劇の持つ格調の高さを前面に押し出す演出と言えるだろう。もちろんジャンルの相違を考慮すれば、単純に両者を比 較することは出来ないが。アレクサンドランの韻文を十分に「聞かせる」朗誦を基本とすることで、いわゆる「台詞劇」の側面が強調されているのもその証と取 れる(厳密な古典悲劇ではないので、アクションが不在ではないが)。

台詞に上演の重点が置かれる時、問題となるのは何より役者の力量だ。今回の上演では、昔堅気の老軍人であるドン・ディエーグ(Rogér Mollien)や、自己犠牲の女性たる王妃(Léonie Simaga)の好演もさることながら、何と言っても主人公シメーヌ(Audrey Bonnet)が、愛と名誉との相克に苦しむヒロインの苦悩を十分に引き出し、本作品の持つ悲劇性を十全に舞台上に提示して見せた。前屈みに折った体を震 わせ、切々と、時には感情を爆発させて、父の名誉にかけてロドリーグを愛することが出来ない絶望を吐露する。古典劇だけが示しうる人物の「崇高さ」をよく 表現していたと評価したい。それに比するとロドリーグ(Alexandre Pavloff)は、若さの抜け切れぬお坊ちゃんという印象を拭いきれなかった憾みが残る。

しかしここで、手放しに本上演を褒めることの出来ない事情がある。シメーヌの激情を示す、いわば大げさとも言える演技に、観客はしばし失笑、または苦笑し た。最も印象的だったのは、彼女がロドリーグが死んだものと信じ、彼への変わらぬ愛を吐露した後、国王がその誤解を解く場面(V, VI)でも、やはり観客が笑ったことだ。この笑いが示すのは何か。それは、愛と名誉との相克、愛の成就の不可能に対する苦悩を、観客はいわば「若気の至 り」と捉えるが故に、彼女の誤解は滑稽なものとさえ映ったということに他ならない(と思うのだけれど)。言い換えるなら、主人公の苦悩は、観客にとっても 切実なものとして共感されることがなかった。もっとも、本来悲喜劇として書かれた脚本自体に、若い主人公を相対化する視点が内在していることは認めるべき である。

とまれ、愛と尊厳という作品のテーマを前面に押し出し、作品の悲劇的側面を強調した演出が、結果的に観客に、一種の皮肉な喜劇的効果を及ぼしたとするなら ば、「正統」な上演が、そのままではもはや現代に通用しないという、古典劇上演の抱える重要な問題が、そこに露呈したと言えるのではないか。

もちろん、家系と名誉の尊重という『ル・シッド』特有のテーマがここでは問題なのであり、問題を古典劇全般に簡単に敷衍することは出来ない。しかし、演出 の(あるいは脚本の)意図と、観客の実際的な反応との「ずれ」が明らかな時に、その上演は「成功」したと言えるのかどうか。伝統の継承の難しさを考えさせ られる上演となった。

最後に、装置、衣装、照明等が、大げさにならずに、美しい舞台を作り上げた点を評価したい。

(とまれ上出来、80点)

2005年11月26日(土)20時
Ballet et Orchestre du Théâtre de Marinski de Saint-Pétersbourg,
Le Lac des cygnes, (Tchaikovski) Théâtre Chatelet
出演Alina Somova, Igor Zelensky他

マリンスキー劇場が来たというのが、今シーズンのパリの一トピックということで、観ましたという報告だけを。クラシック・バレエの真髄とでも評すべきか。文句無し。


2005年11月27日(日)15時半
Shakespeare, Roméo et Juliette, Théâtre 13, production : Compagnie les Saltimbanques
Benoît Lavigne演出

問答無用の恋愛悲劇の傑作なので、粗筋紹介は省略。

五メートル四方ほどの舞台、奥に外装工事で使うような鉄骨の柱および階段。客席の間の通路二本を利用し、しばしば役者は後方より登場、また退場する。衣装はほぼ現代物。

世界中で上演され続けるシェークスピア劇について、多言を費やす必要もない。古典主義的様式とも、近代リアリズムとも無縁のシェークスピアはあまりにも自 由であり、その自由さこそが演出家の想像力を刺激する。ありうべき唯一の演出など存在しないに等しいからこそ、しかしシェークスピアの上演は難しいのでは ないか、とも考える。

舞台は装置なしの抽象的空間であり、衣装はほぼ現代物。モンタギュー、キャピュレット両家はさながらマフィアの一族といった風である。もちろん剣を交えて 格闘し、王が登場する以上、場を現代に置き換えたと考える必要はない。重要なのはロミオとジュリエットの熱烈な愛情の物語だけだ。ためらいの余地など一切 ない二人の純愛をいかに美しく、説得力あるものとして提示するか。それが演出家の目指すところであったろう。

全く個人的な話だが、私の演劇体験は90年代の関西小劇場から出発しているので、そのような人間にとっては、狭い空間にひしめく人物、客席と舞台との近 さ、そして若い役者の放つエネルギーという点で(それだけでと言ってもいい)、小劇場の醍醐味を久し振りに実感した。冒頭近くの乱闘場面、一幕後半の仮面 舞踏(さながらディスコ)等の「見せ場」は、あるいは年配の観客にはどうだったかと思うけれども、物語を勢いよく進めて爽快だった。

役者の中ではメルキューチオ演じるThomas Durandが狂気すれすれの道化役を演じて存在感があり、そして何より肝心なロミオ(Xavier Gallais)、ジュリエット(Tamara Krucnovic)が若い恋人同士の熱烈な愛情の交換を、極めて説得力ある演技で示した。脚本ではジュリエットがわずか十四歳という設定の(不)自然さ がしばし問題になるけれど、若いが故にこそ二人の愛情には一切の不純物がないのだということを、二人の演技は鮮やかに語った。この愛の盲目さを前にすれ ば、ル・シッドの苦悩も何物かと思わされる。何より若さ溢れる舞台(熟年の役者ももちろんいるが)の持つ勢いと力強さに好印象を得た。けれども、である。

今回の上演は幕間なしで三時間近く。前半二時間を越える辺りまでは、文句のない出来だったが、しかし後半の展開には疑問が残った。二時間を越えれば観客の 集中力も落ちて来る。そこを一気に最後まで駆け抜けたいという演出家の意図は分かるのだが、終盤、多くの台詞がカットされ、結果、とりわけ五幕の展開はあ まりにも唐突な印象を与えることになった。主人公の悲恋に焦点を絞ろうとするあまり、細部を疎かにしてしまったのではないか。ロミオが毒薬を飲んで息絶え たすぐ直後に、息を吹き返したジュリエットが、まるで終幕を急ぐように自害する。それまで、感情の推移を細やかに追う、緊張感ある演技を積み上げてきたの に、ここで(皮肉にも)盛り上げを欠いたまま失速してしまった。この場面、二人を立たせたままに(ジュリエットは眠っているのだが)台詞を吐かせる演出 に、かえってあざとさが目に付くように思えたのも、展開を急ぐあまりに自然さを欠き、逆に観客の集中を削いでしまったからだろう。こうなると前半の展開 や、メルキューチオの鬼気迫る臨終の場面も、不必要に時間を取るだけだったのではないか、そう思えてくるから芝居は難しい。自由席かつ劇場自体が狭い故に 幕間が取れないという、あるいは劇場の事情も関与したのかもしれない。無論、劇的展開を優先させる演出家の意図だったと思うのだが、終演後に耳にした「長 すぎた」という観客の意見に賛成したくなる結果は、残念と言うしかない。「終わりよければ」という言葉は、こと芝居に関してよく当てはまる。

シェークスピアを現代風に上演するということ自体は、さして新しいことではない。冒頭に述べたように脚本が常にそれを許容するのである。客席300以下の 小劇場でシェークスピアと聞けば、むしろ現代風演出こそ容易に予想されるのではないか。その意味では、仮面舞踏会がディスコになるぐらいでは驚かない。観 客の「期待の地平」が限定されない時、意外性を求めるのは余計に難しいかもしれない。シェークスピア上演が今日持つ困難は、これほど上演が繰り返される中 で、いかに新しいものを出せるかにあるだろう。

とまれ、今回のような若い小劇団の上演は、翻ってコメディー・フランセーズのような場がいかに「古典的」、格式的であるかを、改めて思い出させてくれる。 もちろんそれは批判ではない。コメディー・フランセーズとは格式ある場なのだ。こと作品の完成度で言えば、コメディー・フランセーズは常に良以上(でなけ ればならない)のは間違いない。だが生身の役者が演じる演劇とは、「よく出来て」いればそれでいいという代物ではない。そこにこそ演劇の醍醐味があり、そ の醍醐味は小劇場でこそよりよく味わえるものである。

(ジュリエットに100点。全体では残念、70点というところ)




【第二回】 喜劇の問い直し −『タルチュフ、または偽善者』、『ダントンの死』

2005年10月4日(火)20時30分
Molière, Le Tartuffe ou L'Imposteur, La Comédie-française, Salle Richelieu
Marcel Bozonnet演出

ごく簡単にあらすじ  
オルゴンは(偽)信心家タルチュフに惚れ込み、財産を譲り、娘マリアーヌと結婚させようと決意する。マリアーヌはヴァレールと恋仲。一方タルチュフは陰で オルゴンの後妻エルミールを誘惑する。女中ドリーヌ、義弟クレアント、そしてエルミール等はなんとかオルゴンの目を開かせようと決意するが、彼は頑ななま ま、息子ダミスを勘当し、タルチュフを財産相続人に決めてしまう。エルミールの計略で遂にオルゴンはタルチュフの正体を知るも、タルチュフは財産相続を楯 にオルゴンを追い出し、更には彼を逮捕させようとする。しかし王の目を欺くことは出来ず、タルチュフ自身が捕らえられる。

おまけの注釈 1664年、最初三幕の『偽善者』は上演中止、67年に五幕、諷刺を和らげるもなお批判と検閲を受ける。「大変危険な喜劇」。  

更におまけ 登場人物の配置、及び劇の基本的骨格は実は『病は気から』とほとんど同じ。この二作品をぶつけて両者の(演出の)差異を際立たせることに、コメディー・フランセーズの戦略を見るべきなのだろう。本演出は2005年初演。

右袖奥から舞台正面奥にかけて、大きな壁、装飾は無く三列の窓。休憩を挟んで四幕に、向かいあわすように別の壁が左袖まで。五幕に入ると右手にあった壁が中央にまで迫り出し、舞台は三分の一程になる。衣装に統一性はなく、時代物と今風とが混交。

本作は韻文劇だが、実際の発話はもっぱら内容重視で語られるために、韻文であることがほとんど分からないくらい。しかし構文は倒置だらけだから素人には理解が大変。

前回、古典喜劇の脚本と現代風の演出との間に齟齬が見られるのではないかと記した。それを回避するならば、現代劇としての上演に徹するか、あるいは喜劇と してのお約束を踏襲して「軽い」上演にするかであろう。今回の『タルチュフ』は前者の例として最適なものだったと言える。実際この脚本は『病は気から』よ りも劇の展開がずっと深刻であり、笑劇の要素は、オルゴンが机の下に隠れて、タルチュフの欺瞞を暴く場面に顕著とはいえ、それほど多くはない。そもそも本 作が「喜劇」であるという前提そのものを覆すこと。そこに演出の意図を認めることが出来るだろう。

場面を経るごとに舞台を狭くしていく装置の配置は、物語の展開、オルゴン一家にのしかかる脅威と圧迫を端的に表現している。最終幕は狭い空間に全ての人物 が集まり、窓からのわずかな青い光だけに照らされた、とても暗い情景の中で展開する。より重要なのは配役であり、脚本から推察されるタルチュフは太めの中 年男であるのだが、細身かつ男前の若い俳優(Éric Génovèse)が危険な香り漂う狡猾な誘惑者を演じる。喜劇的常套からすればタルチュフはあからさまに滑稽ridiculeな人物であっていい。誰も が胡散臭く思うような人物であってこそ、すっかり騙されているオルゴンの滑稽さが鮮明になる。しかしタルチュフが笑うべきである以上に恐るべき存在として 登場することで、オルゴンもまた滑稽である以上に被害者としての印象を強める。そしてオルゴンを演じるのはこれまたとても格好いい黒人男性(Bakary Sangaré)である。この配役には正直驚かされた。

オルゴンが黒人なはずはないというようなことを言う気は毛頭ない。しかし他の人物が全て白人の中で彼一人黒人であることに、意味があるのか問いたくなるの も致し方ないだろう。しかしこのことを論じ出すと長くなるので割愛する。要は演出の目指すところは一点、極めて真面目で、厳粛な『タルチュフ』を作り出す ことにあったということだ。この上演を評価するかしないかもまた、まさしくそこにかかっている。

初演当時から聖職者の強い反発を受けて上演中止の目にあいさえした本作品は、モリエール喜劇の中でも重要な位置を占めるものだ。モリエールが初めて喜劇を 笑劇以上のものに高めたということを、今更ここで強調するまでもない。実際のところ、『タルチュフ』を真面目に、ドラマとして、あるいは悲劇として上演す る試みは、18世紀後半以降今日までずっと継続して行われ、本来の「喜劇」に戻ろうとする反動とともに、いわばそれ自体「古典的」な上演方法の一つであ る。今回の演出もその伝統の上に立つものだ。例えば、オルゴンは滑稽なだけではなく、人間が抱える弱さを、他者を信じたいという願望と自らの威厳を示した いという欲求とを体現した普遍的存在であるということ。古典喜劇にリアリズムを導入すること、それは言い換えれば誇張されて描かれる登場人物を、全的な一 人の「人間」として演じることに他ならない。

付け加えなければならないのは、リスクはどうしても避けがたいということだ。喜劇を喜劇ではないように上演する時、しかしそれは完全な悲劇にはなりえな い。悲劇であるには、オルゴンはやはり愚かであり、同情することがありえても、全的に感情移入するには至らない。全くのドラマとして捉えるには劇の構成、 人物の深み等の点に、どうしても限界がある。ややもすればクレアントが語る「中庸」の美徳を説く道徳劇に堕しかねない。

演出家の真面目な意図をこちらもあくまで真面目に受け止める限りにおいて、この上演は成功していると述べていい。しかし全体として、普通の観客の受ける印象が十分に満足行くものであったかどうかは、別の問題であるだろう。

とまれ、ないものねだりにはきりがないからここまでに留める。人妻を口説くタルチュフがズボンを脱いで丸裸になった時、観客の多くは苦笑した。リアリズムは難しい。

(『タルチュフ』 迷いながらも70点)


2005年10月16日(日)16時
George Bühner, La Mort de Danton, Théâtre Nanterre-Amandiers, Salle transformable
Jean-François Sivadier演出

作品の内容 1794年、ロベスピエールによる恐怖政治の最中、革命家ダントンが逮捕、処刑される前の十日ばかりを描いた作品。具体的な筋に乏しいので粗筋は省略。本作品を注釈付きでちゃんと読むと、当時の政治状況がとてもよく理解出来るのは確か。  
おまけ ビュヒナーはドイツ・ロマン派の早熟天才児にして医者でもあったが、惜しくもチフスで夭逝。とても残念。近年上演が頻繁なことは坂巻リポートを参照。

正方形の広い舞台。前半分に照明。陰になった奥に舞台装置や、登場しない俳優が控え、場の転換はそこから前面に舞台となる足場や人物の登場によって素早く行われる。衣装は現代物の簡素な格好に若干、革命時代の要素を混ぜたもの。  

ビュヒナー上演に関しての詳しい情報は坂巻氏の報告に譲る。『ダントンの死』ような作品が私に興味深いのは、初演を20世紀になるまで待たねばならなかっ たこの作品は、もちろん「古典」と呼ぶに相応しいものであるにせよ、初めから執筆当時の「オリジナル」の舞台を持たなかったということにある。モリエール のような度し難いほどの「伝統」を背負った劇と比べる時、この違いは極めて鮮明だ。手本、規範となる舞台を持たない作品を現代に上演するためには、演出家 が自らの鮮明なヴィジョンをその作品の上に打ち立てなければならないだろう。そして今回の上演はその意味で極めて優れたものだったと考える。  

ビュヒナーの脚本が上演に際して抱える欠点は恐らく二点あり、一つは場ごとに舞台と人物が完全に入れ替わることである(この点、シェークスピアに近い)。 これをどう処理するかは演出の腕にかかっている。もう一点は、この作品が典型的な「台詞劇」であり、人物の「行為」がほとんど存在しないことだ。この劇を 下手に上演すると退屈になるのは目に見えていて、十九世紀に舞台に乗せられることがなかったのも、恐らくはこの一種の「見返りの少なさ」に理由があっただ ろう。  

今回、演出家は上演に際して一般的なリアリズムを採用しなかった。舞台は全くの抽象的空間であり、従って装置をその都度転換させる必要はない。対話にも関 わらず、多くの台詞は客席に向かって、あたかも演説のように発せられる。全ての台詞が恐怖政治時代の政治的アジテーションと同列に扱われるのだと言ってい い。観客にダイレクトに呼びかける試みは徹底し、冒頭は現代の政治状況に関わる台詞で始まり、途中には役者が、政治的状況に個人が関わらざるえないことに ついての意識を観客に問いかける。ダントンとロベスピエールを中心に、それぞれの人物が歴史的社会的状況において個人のあり方の選択を嫌が上にも迫られ る。劇の筋以上に、今回の演出はそうした各人物それぞれに焦点を当て、ダントン(Nicolas Bouchaud)、ロベスピエール(Jean-François Sivadier)、カミーユ(Vincent Guédon)等の存在感ある演技が、幕間なし二時間半を見事に押し切ったと言っていい。一面に砂をまく美しい演出、細かい照明の配慮、緊張を高めるのに 効果的な音楽、簡素でありながら変化に富む舞台。役者は皆、力ある演技を見せたけれども、中でもダントンは、原作の血なまぐさい政治に疲れきった男という 印象よりも、むしろまだ若く精力溢れるダントンのイメージを強く打ち出して鮮やかだった。  

徹底的に独自の演出を施すことによって、リアリズムに則る脚本と現代的演出という齟齬は完全に解消され、一個の新しい作品であるという印象を強く与えられた。恐らく古典を現代に上演し直す試みの一つの見本といっていい舞台であっただろう。  

ただ一点考えさせられるのは、政治、社会と個人の関係性を観客のアクチチュアルな問題として提起する試みが、上品な中上流の中高年という観客層に対して、 どれだけ切実なものを持ちえるのかということだ。これは劇というメディアそのものに関する問題でもあるのでここでは詳述はしない。もっぱら美的側面に感動 する私のような観客が、しかし観客の大多数を占めていただろうと推察するには難くない。

(『ダントンの死』ブラヴォー、90点)




【第一回】 笑わせてよ、モリエール! −『病は気から』

2005年9月27日(火)20時30分
Molière, Le Malade imaginaire, La Comédie-française, Salle Richelieu
Claude Stratz演出

一応あら筋。
  「病人」アルガンは医者に頼りっきりで薬と浣腸の日々を送っている。身内に医者が欲しい彼は、娘アンジェリックを医者の息子トマ・ディアフォアリュスと結 婚させようと決意。一方アルガンの後妻ベリーヌは彼の遺産を狙い、邪魔なアンジェリックを修道院に入れようとしている。当のアンジェリックはクレアントと 恋仲。女中トワネットはアルガンの「馬鹿げた計画」をご破算にさせようと決意する。(一幕)

 クレアントは音楽の教師の振りをしてやってくる。そこへ医者のディアフォアリュスが息子を連れて登場。がり勉息子は暗記台詞で結婚を申し込み、クレアン トとアンジェリックはオペレッタの台詞に隠して愛を告白しあう。アンジェリックは結婚を拒み、アルガンを怒らせる。(二幕)

 弟ベラルドが説得に来るがアルガンは聞かない。トワネットは医者に扮して出鱈目な処方で彼を医者嫌いにさせようと試みた後、アルガンに死んだ振りをさせ て、ベリーヌ、継いでアンジェリックの本心を確かめる。観念したアルガンは、クレアントが医者になるなら娘を与えると述べるが、ベラルドはアルガン自身が 医者になるべきだと勧め、(三幕)巡業の役者達を交えて、偽の医師免許伝授の儀式を行う。(終幕劇)

おまけの注釈 モリエール最後の劇(1673年)。リュリと決裂した後、別の作曲家シャルパンチエと共同で製作。上演中にモリエールは吐血、終演後に死去。


簡素な舞台。病人用車椅子。正面に扉、左右、袖奥に窓。一幕は左、二幕、三幕は右手より光。背景画は古典主義風の柱等、ごく控えめ。衣装は基本的に時代物。

今回の舞台は序幕はカット、一幕、二幕後の幕間劇は原作とは違うものになっていて、この点、原作を想定していると肩透かしを食う。

アルガン役(Alain Pralon)、および女中役(Muriel Mayette)の役者がとても熟練。安心感があり、落ち着いて見ていられる。医者の息子役(Nicolas Lormeau)が、がり勉馬鹿息子を好演。非常に受けていた。暗記した台詞を述べる前に立ち位置を決める等の小技が利き、台詞回しでも笑わせる。細部が 生きるのは役者の力量だと思う。その点、コメディー・フランセーズは、意外や型にはまらない自由さがあるのかもしれないと感心。医者に扮したトワネットは おまるの中身を指でなめ(客は悲鳴)、中身をアルガンに振り掛ける(客は大笑い)。実に古典的と言うべき素朴な笑いが始終劇場を活気付ける。

台詞回しがとても早い。脚本を読んでいないと私には理解はとても難しい。散文劇ゆえでもあろうか。しかしそのおかげでテンポがとてもよい。三幕休憩無し二時間、だれることなく一気に駆け抜けたという印象。

モリエールの劇は性格喜劇云々以前に、いわゆる民衆的な笑劇の要素を多分に含んでいる。とりわけ本作は、もちろん権威ぶった医者への諷刺は痛烈にせよ、基 本的にとても軽い作品(と私は思う)。オペレッタを口実に告白しあう恋人達、死んだ振りをして後妻と娘の本心を暴く、あるいは一人二役早替わりといった場 面は、それ自体ごく普通に笑いを呼ぶものだから、多分、この作品はそんなに気合いを入れて演出しない方がいいんじゃないかという気がする。

今回の演出はどうだったか。基本的にとても真面目。寒そうな風の音、震えるヴァイオリンの小節の挿入、カラスの声と共に登場する公証人。しばしば照明はと ても暗く落とされる。例えば、アルガンが娘の結婚を決めたと告げ、アンジェリックが相手をクレアントと誤解して喜んだ後、別人と気付かされる場面。それは 確かに笑うべき場面であるのだけれど、そこに、度々使われた悲しげというかおどろおどろしいとでも言うかのヴァイオリンの音が挟まれる。娘の心境に寄り添 うならば、それは確かに驚きと悲しみの表現として間違っていない。しかし普通の観客としては誤解が解けたその瞬間は、一種、緊張が解けた緩和の時であるか ら笑う。舞台は暗く、人物は皆真剣なのに、しかし観客は大受けするという構図が何度もあった。

三幕終えて最後、背景両端、花火の音と共にブロックの壁が崩れて(結構驚く)、そこからプルチネッラのような人物達が登場してきて終幕劇が始まる。スモー クが炊かれ、照明は暗く、これまたおどろおどろしいというか、怪しげというか、フリーメーソンの儀式のような雰囲気の中で進行する。えせラテン語で繰り広 げられる擬似医師承認の宴の場面として、この雰囲気が合致しているのかどうか。恐らくモリエールの意図は、宮廷の祝祭の場で、最後を豪華絢爛に締めること にあったろう。はっきり言って唐突なこの話の括り方は、物語の筋以前にコメディー・バレーというジャンル枠が先にあったことをありありと示している。

従って率直な感想を述べるなら、滑稽さが売りの笑劇脚本と、いたって真面目な現代的な、すなわちリアリズムが重要な役割を果す、演出とが拮抗するというか 衝突しているというかの印象が残った。それ故確かに、情景の真面目さと、その真面目さそのものが喚起する笑いとのギャップが極めて鮮明になる。物語と人物 を極めて真面目に表現することで、「性格喜劇」という面を強調すること。恐らくはその辺りに演出の意図はあるのだろう。しかし暗い舞台、深刻な人物達を前 にして、素朴なギャグに笑う観客、そこにはなんとはなしにもどかしいような気にさせるものがある。幕間劇のカットと変更も、舞台の統一という点では理解出 来るものの、もっと陽気でもいいんじゃないのと問いかけたい。

モリエールはもちろん単に笑劇なだけではないので、だからこそ300年以上も演じ続けられてきたのであるのは百も承知で(ちなみにこの回は1680年から 数えて2173度目の上演!)、しかし浣腸ネタでもって人を笑わせるという、笑いの原点を全然等閑などしていないところに、モリエール劇の不滅さがあるの も確かだと思いたい。当時世界有数、あるいは世界一の洗練された文化国家の頂点で、しかしモリエールは浣腸で王様まで笑わせていたというのは、考えてみる と随分と凄い話のような気がする。コメディー・バレーとして作られた本作はとりわけ、その単純な筋、単純な笑いの仕掛けの点で、深刻でない軽さにこそ、そ の持ち味があるような気がしてならない(本人病気だった作者が命がけで医者と病人とを諷刺するという深刻さが背後にあるのはともかくとして)。

古典(喜)劇にリアリズムに則った演出を持ち込むということはどういうことなのか。恐らくそれは現代の観客に訴えるためには必要不可欠なことなのだろう。 あまりに様式ばった、あるいは素朴すぎる演技では観客は入り込めないのかもしれない。人物の心境を真面目に捉えて演出するということも、必要なのかもしれ ない。でも本当に?

結局のところ観客はとても受けた。それはしかし脚本そのもののあまりにも古典的な笑いの要素と、それを十二分に引き出した役者の力量によるところが大き い。そこにあって演出家の存在は、とても曖昧なものに思えてくる。もちろん演出家がいなくても同じような舞台になったとは言わないし、そういうことはあり えない。

演出家の仕事は舞台の端々にまで及ぶ。しかし古典喜劇を、モリエールを現代に、コメディー・フランセーズで上演するとはどういうことなのか。ふとそういう 疑問が湧き上がってくる。伝統と権威とがモリエールを「真面目」に上演しなければいけないように、半ば義務付けているのではないかと邪推したくもなる。
古典を今、上演するということについて、これから少しばかり考えられればと思う。

(モリエール『病は気から』評価 80点)

 


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