関西マラルメ研究会 美術評論

par 岩津 航



【第9回】 塩田千春の物の記憶(2009年6月28日)

最近、塩田千春が気になっている。昨年の夏に大阪国立国際美術館で開催された個展「精神の呼吸」には、同時開催のモディリアニ展を遥かに凌駕するほどの刺 激を受けた。その後、「金沢アートプラットフォーム」(市内のあちこちに複数のアーティストが作品を展示)の一環として、金沢美術工芸大学キャンパス内に 新作を発表、同じ作品の別ヴァージョンを、金沢21世紀美術館のグループ展「愛についての100の物語」に出品している。こんな風に立て続けに見る機会を 得て、金沢在住の私はすっかりこの作家に魅了されてしまった。
塩 田千春は1972年大阪生まれ、京都で美術を学んだ後、ドイツに留学、現在はベルリンに拠点を構え、世界的に活動を展開している美術家である。公式サイト に作品の一覧があるが、彼女の作品はどれも生と死をめぐる独特の感覚に貫かれている。とりわけ既製品にこめられた個人の記憶や想念をかたちにする独特の才 能がある。赤い糸で数百の靴を結んだ「DNAからの記憶」は、強烈な印象を残すものだった。一つ一つの靴に、提供者の思い出を記したメモ用紙が付けられて いる。初恋、運動会、入社式、人生のさまざまな局面に靴は付き添う。いや、リハビリで足の機能が回復したら履くつもりだった、というせつない未使用の靴さ えある。そんな風にかけがえのない人生の時間(それは実際に過ぎた時間だけでなく、あり得たかもしれない時間をも含む)の同伴者でありながら、使い古され た靴はどれも、それを履かなかった者にとっては、減価償却した既製品でしかない。そこから記憶をいかに掬い=救い上げるか。塩田はすべての靴に赤い糸を結 わえ、それを壁上方に据えられた一点に集約してみせた。その結果、それぞれの靴の記憶が、なんらかの繋がりを得ることになる。だが、どんな繋がりか。同じ 時代に同じ地上を歩いたということ以外には、何もないだろう。とはいえ、時代はそれぞれの人生が積み重なって作られる。芸術とは、ここでは同時代の呼吸を 感じることである。

金 沢でも展示された「彼の椅子」は、当初はアンデルセンにちなんだ企画展で考案されたものだそうだが、途中から独立した作品になった。壁の崩壊後、急速に建 替えが進む東ベルリン地区の工事現場で収集した約600枚の窓を、円筒状に積み重ねた作品だ。ガラスが嵌ったままのものもあれば、窓枠だけのものもある。 高さは4mほどあるが、近寄ってみると、すべてネジだけで留めてある。私がフランスで暮らしていた部屋にもよく似た窓枠があったため、その窓の内側で営ま れたはずの生活を容易に想像することができた。しかし、窓の内側なのか、外側なのか、建物がない今、どうやって知ることができるだろうか。窓自体には、何 の個性もない。ただ、そこから毎日、同じ風景を眺めていた視線の痕跡だけが立ち現れるだけだ。窓にはメモ用紙は付いていない。あり得たはずの時間を触発し つつ、不在者の記憶を正確には知ることのできないもどかしさを感じる。

先日、富山県入善町の発電所美術館で展示中の新作「流れる水」を鑑賞した。ここは煉瓦造りの水力発電所の旧い建物をインスタレーション専門の展示場にした ユニークな美術館である。数十台のベッドが、凍った滝のように連なっている。その上に、シャワーから水が降り注ぐ。会場は雨音に包まれ、照明によって明暗 をつけられている。よく見ると、ベッドには針金が巻き付いている。ときには、隣り合うベッドを結びつけるように絡みついているが、まったく関係なく、ただ 巻き付けられている場合もある。病院用のベッドに水を流す作品は、すでに2002年に「不確かな日常 死の床」として発表されたことがあるが、今回は高さ10mの会場を十分に利用した、ダイナミックな作品だった。

鑑賞中に、ふいに水が止まる。学芸員によると、水に気を取られすぎないように、ときどき放水を止めるよう、塩田千春自身が指示しているそうだ。今度はぽた ぽたと滴の音が響き渡る会場で、じっとベッドを見る。これはすべて実際に病院で使用されたベッドである。ということは、そこで誰かが死んだかもしれず、ま た誰かが祈るような気持ちで夜を過ごしたり、叶わない夢を見たり、見舞客と冗談を交わしたりした、ということである。そんな不在者の不正確な記憶が、一気 に立ち上がってくる。だが、水は乾いた記憶を呼び戻すものであると同時に、記憶を洗い流してしまうもののようにも見える。ここでも、不在のベッドの主をめ ぐる両義的なイメージが見事に交錯する。

記 憶を洗い流すと言えば、泥まみれの巨大なドレスを吊るし並べてシャワーで洗い続ける「皮膚からの記憶」は、塩田千春が2001年の横浜トリエンナーレで注 目を浴びるきっかけになった作品だ。私は「精神の呼吸」展で同じ作品の縮小版を見ることができた。ドイツに住んでいても、アジア人の皮膚から逃れることが できないように、どうしても洗い流せない記憶のあり方をこの作品に託した、と作家自身は語っているが、鑑賞者はそこに取り立てて自伝的な要素を見出す必要 はない。誰も着たはずのない巨大なドレスは、彼女の作品群のなかでは、むしろ異色であるように思われる。ここでは、記憶はどこまでもまとわりつく不愉快な 様相を見せていて、他の作品にあるような、物と人が切り結ぶはかない記憶のせつなさが感じられない。

ところで、塩田千春の代表的作品は、じつは上に挙げてきたような大掛かりなインスタレーションだけではない。彼女のトレードマークともなっているのは、さ まざまなオブジェを黒い糸で繭のように包み込んでしまう作品である。「トラウマ/日常」や「存在形態」と題されたシリーズでは、日用品が黒い繭に包まれ、 黒い鉄枠に入れられて、ワイヤーで吊るされる。トラウマとは、心的外傷のことではなく、ドイツ語の「夢」(Traum)のことだろう。作品はあたかも、そ れらのオブジェの使用者の想念をそのまま写し出して展示しているかのような、ある意味でエクトプラズムのような生々しさに満ちている。と同時に、その当事 者の不在をもまざまざと感じさせる。誰かの記憶を痕づけるように、塩田は物の周りに糸を張り巡らせる。

この繭のような黒い糸にパフォーマンスを掛け合わせた作品もあるようだ。私は直接は見ていないが、繭に包まれた空間にベッドを十数台置き、そのなかで女性 たちが実際に眠る、というものである。ときには塩田自身がベッドに入ることもあったらしい。そのとき、鑑賞者はベッドのなかで眠る人の想念の糸越しに、眠 る人の外貌を見ることになる。あるいは、眠る人の夢は、必ずしも彼女の内部にとどまらず、ベッドの周り、部屋の隅まで黒々と、あたかも闇に滲み出てしまっ たかのように、広がっていくこともあるのだ、という事態に立ち会うことになる。ベッドに入るパフォーマンスが女性に限定されているのは、男の寝姿よりもフ ラジャイルで純粋な要素を喚起するからだろう。

物を通じて記憶の痕跡をたどる。それは結局のところ、歴史を個人的経験としてどのように再現するかということだ。既製品に込められた想いがある。それは日 常的に誰もが経験していることだが、見知らぬ他人の持ち物をただ見せられても、そこから記憶を読み取るのは難しい。塩田千春の芸術は、通常とは異なる側面 から物を提示し、想像力を喚起することで、鑑賞者のうちにいわば即席の記憶を捏造する。芸術にとって大事なのは記憶の真贋ではなく、記憶の作用を呼び起こ すことである。見知らぬ他人の記憶をまざまざと思い出すことはできないが、他人にも固有の記憶があり、固有の人生があることを、自分の記憶の作用を借りて 想像することならできる。それは他者を呼び起こす手がかりであるとともに、本当の他者には到達できないもどかしさを伴う。だが、他者とのふれあいとは、結 局そういうものではないだろうか。塩田千春が作り出すのは、物をめぐる、厳しい他者の認識に貫かれた芸術作品である。



【第8回】 ダン・フレイヴィンと光の喪(2006年8月22日)


前回ターナーと外光の話を書いたので、今回は室内の光を描いた画家としてフェルメールを取り上げようと考えていた。フェルメールの光には、ターナーとは異 なるあり方で、時間が流れている。ある一瞬がその状態のまま続く、神学的な意味での「永遠」を感じさせる。いつも決まって画面左の窓から射し込む光は、あ たかも恩寵のようだ。それは牛乳を注ぐにせよ、水差しを傾けるにせよ、針仕事をするにせよ、リュートの練習をするにせよ、恋人の手紙を読むにせよ、人間の 営みのほとんどが光のなかで継起するということの確認である。フェルメールにおいても、レンブラントにおいても、いやデ・ホーホやヘラルト・ドウにおいて も、光のなかにいつも人間がいる。

オランダ絵画が人間不在の絵画においても優れていたことを忘れているわけではない。すなわち、風景画と静物画。やがてロマン派が月光に寓意を与え、印象派 が陽光に時間の感覚を付与することになる。そういえば、ヤン・ステーンなどに代表されるオランダ風俗画の光は、少し不思議だ。たとえば、酒屋で酔っ払った 男が描かれていれば、当然それは夜の出来事であり、現在の照明感覚からいえば、ほとんど暗がりと言っていいくらい明度が低かったはずだ。なのに、画面はま るで芝居の舞台のようによく見える。表現はリアリストだが、光の量に関しては調整したということだろうか。とにかく、そうした流れのなかで、フェルメール の光を検討してみよう、と漠然と予定していたのだった。

ところが、先日、パリ市現代美術館で開催中のダン・フレイヴィンの回顧展を見て、「室内の光」が意味するところを再び考えさせられた。というのも、彼の作 品では光が最も現代的な切実さをもって迫ってくるからだ。フェルメールのような日常の生活圏を肯定する光でも、それはターナーのような夢の領域を画定する 光でもない。フレイヴィンの光は、もっと淋しい光だ。その淋しさは、誰も通らない夜道の街灯の淋しさに似ている。

ダン・フレイヴィン(Dan Flavin, 1933-1996)は、ニューヨーク生まれの芸術家で、市販の蛍光灯を材料にした創作で知られている。1992年には、グッゲンハイム美術館の改装オー プン記念インスタレーションを発表し、大きな反響を呼んだ。没後10周年にあたる今回の展覧会が、初の大規模回顧展になるそうだ。ワシントン・ギャラリー を皮切りに、ロンドンやバーゼルを巡覧し、最後はミュンヘンのピナコテーク・デル・モデルネまで移動する。私にとってフレイヴィンは、もう10年近く前に パリで初めて見て以来、ずっと気になっていた作家である。その後、ヨーロッパの現代美術館に行くたびに彼の作品に接し、そのたびに深い感銘を受けてきた。

フ レイヴィンの光は、前述の通り、蛍光灯である。形状は棒状か円形、しばしば色付きのチューブを使うが、色彩のバラエティは限られている。つまり、極めて制 限の多い素材をあえて選び、その制限のなかで仕事をした。それゆえ、彼はドナルド・ジャッドと並んでミニマルアートの代表的作家として捉えられている。だ が、素材が発光するという一点において、彼はミニマルアートの傾向から大きく逸脱しているように思われる。

たとえば、ジャッドは「重力」シリーズで、同じサイズの箱を垂直の直線上に壁に取り付け、徹底した非人称の世界を展開した。音楽では、「ヴァイオリン・ フェイズ」の頃のスティーヴ・ライヒが、西洋音楽の構成要素を分解した上で再構成し、音の規則的な反復が音楽であることを証明してみせた。いずれにせよ、 現実世界の参照や感情の増幅を排し、物質そのものに芸術の契機を見出そうとするものだった。思想上では構造主義の時代である。

ミニマルアートの作家は「無題」を好む。フレイヴィンも同様に、解釈を誘発するようなタイトルは避けている。ほとんどの作品が、特定の現代美術家に捧げら れているのが、一つの大きな特徴である。ブランクーシ、バ−ネット・ニューマン、ジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンシュタインといった名前が挙がる が、対象は必ずしも彼の知己ではない。ロシアの芸術家ヴラディミール・タトリン(1885-1953)に捧げられた作品は50を超えるが、フレイヴィンと タトリンの間に交友があったとは思えない。だが、献辞はあくまでも彼の敬意の表明であって、それ以上のものではない。蛍光灯をいくら眺めても、その美術家 の作品との関連は掴めない。

蛍光灯という素材の大きな特徴は、その光の冷たさにある。フィラメント電球にあって蛍光灯にないのは、熱の表現だ。それだけに、蛍光灯は、リノリウムやス テンレス鋼材と並んで、現代生活の象徴としては判りやすい素材である。だが、フレイヴィンは、蛍光灯を日常のコンテクストから切り離して使用する。照らし 出すべきものを欠き、ただそれ自体で存在する蛍光灯は、突如として抽象性を帯び始める。またサイズの操作、配置、数量、そして色彩によって、蛍光灯は、す べて市販のものであるにもかかわらず、極めて自律的な空間を獲得する。フレイヴィンの作品が感動的なのは、まさにこの抽象のレベルと関係があるのだ。

たとえば、彼の蛍光灯作品の始まりとなった「1963年5月25日の斜線(コンソタンティン・ブランクーシに捧ぐ)」を見てみよう。これは壁面に黄色の蛍 光灯を1本、右上から左下に斜めに取り付けただけの作品である。斜めであるというだけで蛍光灯は日常性を失い、黄色によって肯定的なエナジーを得る。

逆に、「待ち伏せで殺された人々に捧げる」と題された1966年の赤い蛍光灯作品がある。珍しくタイトルに主題が明示されている。これはベトナム戦争の戦 没者へのオマージュである。4本の蛍光灯が、微妙な角度で交差する。赤は暗く沈んだ赤で、空間はほとんどワインレッドに見える。周囲を沈んだ雰囲気に変え ながら、その赤は、死者がかつて生者として存在したことを喚起しているように見える。告発するというよりも、追悼の気分がそこにはある。

1973年の「無題(ハイナー、敬意と愛情をもって君に捧げる)」は、緑色と白色の蛍光灯を垣根のように組み合わせ、展示室の端から端まで並べた作品であ る。それもただ真横に一列に並べるのではなく、斜めにずらして、各垣が少しずつ重なるようになっている。室内は完全に緑に染まり、鑑賞者は緑の光線に充た された空間のなかを移動する。フレイヴィンの作品に触れるということは、文字通り光を体験することである。作品の上下左右、対面の壁にいたるまで、光が届 き、空気を変える。何の変哲もない人工の光が、これほど遠くまで届いていくことに、驚きを覚える。光源である蛍光灯だけではなく、光の届く範囲すべてが作 品の一部なのだ。

これはヨーロッパ流の間接照明に慣れていると、余計に鮮烈に見えてくる。ヨーロッパでは、蛍光灯は、駅や事務所といった公共空間の照明であり、私的空間で は白熱灯を用いた照明、しかも壁に照らし出すかたちでの間接照明が主である。また、ネオンやレーザーの光線とも違う。これらは、商業的なコンテクストと結 びついた光である。蛍光灯は、官僚的で非人間的であり、まさにその意味において日常的である。フレイヴィンはそこに挑んだ。先ほど述べたように、日常生活 を想起させる仕掛けは一切ないのに、光そのものへの私たちの馴染み深さは残っている。そこで、フレイヴィンの作品は、極めて抽象的でありながら、同時にと ても懐かしい感触を与えるのである。

その懐かしさの感覚こそは、フレイヴィンの光を芸術として成立させているものだ。私はフレイヴィンの作品に出会うたびに、deuil(喪)という言葉を思 い出す。それは、彼の光が、存在への呼び掛けに思えてならないからだ。あらゆる光の美しさは、常に闇との競合のなかで理解される。光を当てる前に、明かり を灯すことを想像しなければならない。暗い室内に光が出現する。それは、まるで私たちが生きていることと同じように、奇跡的な事態に見えてくる。これは蛍 光灯の原理を思い起こすと、一層意味深く感じられる。蛍光管の内部には低圧水銀の蒸気が充満しており、そこにアーク放電すると、ガスがイオン化して紫外線 を発生する。この紫外線が管の内部に塗られた蛍光粉末に衝突すると、乱反射が起き、外部から見ると均一の白い光を発することになる。つまり、わずかな光を 増幅するのが、蛍光灯の原理である。このことは、フレイヴィンの作品の原則と見事に呼応している。また、白熱灯と較べて寿命が非常に長いことも重要な要素 だ。

光が喪を意味するということは、教会でロウソクに火を灯すことからも明らかだ。それは記憶の表明であり、光は記憶の装置となる。だが、私たちは毎日ロウソ クに火を灯すことができない。それは単に忙しさや怠惰のせいではなく、悼むべき人が多すぎるからであり、自らもまた悼むべき存在であることを知り過ぎてい るからだ。だからこそ、フレイヴィンの蛍光灯は、その無表情で恒常的な光によって、私たちの喪を代行してくれているように感じるのである。20世紀以降の 喪は、匿名の喪である。その意味で、フレイヴィンが死の直前にミラノのサンタ=マリア教会(Santa Maria in Chiesa Rossa)の内陣をデザインしたのは、ごく当然のことだった。

パリに来たリルケはロダンと出会って、「感動を物に変える力」に驚嘆した。ロダンの彫刻は単に感動を「表現」しているのではなく、感動そのものが物質に結 晶したような強度をもっている、と詩人は考えた。ロダンはそれを「メチエ」の力によって成し遂げた。つまり職人的ともいえる態度で、毎日ひたすら土を捏ね 続けたのである。フレイヴィンもまた、蛍光灯の配置に関するデザイナー的仕事を「メチエ」としている。ただし、感動が物に変わったのではなく、既成品が感 動に変わると言った方がいいかもしれない。

蛍光灯の三次元の光と、フェルメールやターナーの二次元の光の表現を較べることはできない。そのことを充分承知のうえで、ダン・フレイヴィンの光こそが、 20世紀から続く雑駁な風景のなかに生きる私たちにとって、最も切実な光の表現であることを、あらためて主張したくなる。




【第7回】 ターナーと光の夢 (2006年3月22日)


以前、オディロン・ルドンの絵画について、「目を閉じたときに見える幻を再現しようとしている」と書いたことがある。夢とは、闇のなかでしか見ることので きない何かである、と私は考えていた。だから、夢の表現は、沈んだ、穏やかな色調によって表現されるべきである、と。だが、先日、初めてロンドンを訪れ、 ナショナル・ギャラリーおよびテート・ブリテンで、ターナーの作品を一挙に見る機会を得て、私は別の夢の見方もあることに気づかされた。

周知のとおり、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、印象派に半世紀先駆けて、外光の印象を画布に定着させようとしたイギリスの画家である。もと もと水際の風景などを好んで描いていた彼は、しだいに大気に充満する光そのものを、独自の色彩感覚と省略的かつダイナミックな筆さばきで表わそうとした。 その表現が、後年クロード・モネに決定的な影響を与えたことは、昨年のグラン・パレの展覧会「ターナー/ホイッスラー/モネ」展でも強調されていた。


ターナーがいかに画期的で独創的だったかということは、イギリス絵画史を振り返れば一目瞭然である。そもそもイギリスは、絵画の領域では他のヨーロッパ諸 国に較べると、著しく遅れをとっていた。肖像画の伝統を別にすれば、18世紀のウィリアム・ホガースの出現によって、初めて英国固有の絵画表現を得たと言 われるほどだ。その後、レイノルズ、ゲインズボロ、コンスタブルといった画家たちが、文学におけるロマン主義と連動しながら、イギリスの風景を発見してい く作業に身を投じた。とくにコンスタブルによる雲の描写は、刻々と移り変わるイギリスの空模様を克明に伝え、他国の風景画にはない、独自の表現として結晶 した。だが、一貫して言えるのは、イギリスの風景には光が乏しいということだ。だからこそ、ターナーの出現は、一層驚異的なのだ。なぜ彼はあのような光の 表現に到達することができたのか。なぜ、そもそも、彼はあのような光を描こうとしたのか。

ターナーがクロード・ロランに負っているものは、極めて大きい。それは、一言で言えば、光の広がりをいかに表現するかということだ。フランドルで、レンブ ラントが明暗を、フェルメールが室内の光線を描くことに熱中していた頃、クロードはローマにあって、大気の中に光が満ちている状態を絵画的に表現する方法 を開拓した。クロードは神話画の背景として風景を描いたが、その眼目が風景の方にあることは疑い得ない。さらに言えば、クロードは、森や小径や港といった 風景を構成する諸要素よりも、風景を成立させている空間そのものを描こうとする。細部の積み上げではなく、包み込む光によって、初めて風景が一つのものと して成立する。画面の奥からこちらに向かって差し込む光は、その色と同時に空間の広がりを画定する役割を担っている。

ター ナーも、最初は神話画を描いた。1817年作の「カタゴニア帝国の凋落」は、まだクロードの模倣に近い。光源は夕陽である。それより以前の1796年作の 「水夫と海」などは、ほとんどカスパー・ダフィット・フリードリヒを思わせる、明瞭な輪郭を備えた風景画である。こちらは月夜を描く。いずれも、海を描く 口実として、なんらかの画題を探してきた感じがする。この頃のターナーは、まだロマン派の優れた画家にすぎない。

美術史では、1819年のヴェネツィア旅行を、ターナーの絵画の転機と捉えるのが通例になっている。私はさらに、1820年頃から、ターナーが海水浴場の あるマーゲイトへ毎夏出かけたという事実を重視したい。マーゲイトといえば、すっかり寂れた現在の様子を、グレアム・スウィフトの小説『ラスト・オーダー ズ』で読んだことがあったので、私にはかえって往時の光景が思い浮かべにくいが、プルーストが通ったカブール(小説中のバルベックのモデル)のようなもの を想像すればよいのだろう。テムズ川河口のマーゲイトで、ターナーは雲と陽光と海面を眺めた。ただ眺めただけでなく、眺め続けたはずだ。そして、おそらく そこで彼は、刻々と変化する光の意味について、何らかの確信を抱いたはずだ。これらの旅行は、遮蔽物のない広大な空間の広がりをいかに光の充満によって捉 えるかというテーマへと、ターナーを導いていった。

私の見た限りでは、ターナーの画面には、1830年半ばあたりから、もはや抑えきれなくなったように光が満ち始める。有名な「国会議事堂の火事」では、火 焔そのものよりも、炎に染められた夜の大気が、画面の大半を占める。火事を眺める群衆は、とりあえず判別可能な程度にシルエットで描かれている。右手に架 かる橋は、奥行きを強調し、テムズ川の対岸から距離を置いて眺めている臨場感を演出する。だが、この炎から熱を感じることはできない。それは、まるで芥川 龍之介の『地獄変』のように、ひたすら美に奉仕する炎である。ここで重要なのは、炎によって、夜の闇が光に屈服し、普段は見えない空間を、つまり夜のなか に昼を作り出していることだ。炎を映す夜空は、真昼の空よりも、光の運動をよりよく伝える。ある意味で、これはターナーの美学の要約ともいえる。ターナー の夢は闇のなかでは見られないのである。

橋が奥行きを作る絵としては、嵐のなか、高架線を疾走する機関車を描いた「雨、蒸気、速度」も、それにあたる。ただし、この絵は、従来の 風景画とはまったく別のアプローチで空間を決定した、稀有な作品だ。題名にもあるように、ある広がりのなかを横切る「速度」が、画題となっているのであ る。ここが、たとえばモネとの決定的な違いだ。一瞬の光を捉えるのではなく、持続のなかで光を捉える。といっても、時間の経過が主題なのではない。描きた い空間を査定するために、光を泳がせるのだ。光が蒸気に反射し、照らし出し得る範囲が、そのままターナーの見た空間を決定する。言い方を換えれば、ター ナーの光は、運動とともに捉えられている。それは印象派絵画の水面の光とは違い、変化を内蔵している。これは、ごく単純に言って、イギリスの気候が彼に教 えたことだろう。運動性という点で、ターナーの光はコンスタブルの雲を見事に継承している。

1845年の「ノーアン城の日の出」にいたっては、湖面に映る馬の影、わずかに判別できる城のシルエット以外は、いかなる輪郭も認められない。空間表現 は、伝統的な遠近法を捨て、光と淡い色の戯れによって処理されている。画面に動きを与えているのは、手前から奥へと動く視点ではなく、交錯する光と色であ る。奥行きを欠いているというよりも、プリズムによって、光が全方向に運動を喚起する、と言った方がいいかもしれない。いずれにせよ、その画面は、ほとん ど抽象画に近い感慨を呼び起こす。

実際、ターナーを20世紀後半の抽象画と比較するのは容易だ。たとえば、アンフォルメルの画家ザオ・ウーキーの画面は、ターナーに似た運動性を示してい る、という風に。かつてボルヘスは、「カフカの偉大さは、彼の出現によってカフカ的作家の系譜が突如として文学史のなかに出現したことだ」と述べたが、同 じことが絵画鑑賞についても言える。後世の人間は、新しい誰かによって古い誰かを評価することが許される。さきほど私がしたように、ターナーとモネを較 べ、それをさらに抒情的抽象画と較べることができるのが、現代人の特権である。芸術家の意図を離れ、芸術家の達成したものだけを評価すること。そうでなけ れば、古いものを読み返したり見直したりする意味はないだろう。

では、ターナーが達成したものは何か。たとえば、絵画表現が絵具によってのみ実現することを深く認識したこと。彼は画材職人と協力して自 ら絵具の改良を手がけた。晩年の作品に見られるペインティングナイフによる荒々しいタッチは、描かれた風景と描く手との間にある物質の介在を強調する。だ が、何よりもターナーが独特なのは、年を重ねるにつれ、満ちあふれる光だけが描くに値する現実の(リアルな、つまり現実として真に迫ってくる)風景である と考えるに至ったことではないだろうか。ちょうどオリヴィエ・メシアンの交響曲において、爆発する歓喜だけが、真に表現に値する歓びであったように、モネ の睡蓮連作において、光だけが画家と世界をつなぐ絆だったように、ターナーには光が作り出す空間だけが、表現の努力に値するものとなった。

晩年のターナーは、何日もカーテンを閉め切ったアトリエで過ごし、その後に窓を開け、入り込んでくる光を楽しんでいたという。あるいは、楽しみというより は、彼なりの研究だったのかもしれない。この逸話を、たとえばフェルメールの穏やかな採光の施された室内画を思い浮かべながら聞くとき、私はそこにター ナー独自の夢の見方を発見するような気がする。彼ににとっては、アトリエの暗がりのなかで過ごす時間は、光を発見するための準備であり、光の中に身を置く ことこそが、夢の実現だった。そこでは、光を見つめることこそが、夢を見ることにほかならない。

テート・ブリテンには、1851年に亡くなったターナーの未完作品を集めた部屋があるが、そこでは、もはや何を描いたかも判然としない、ただ光が画面のな かで踊っているだけの、不思議な絵を数枚見ることができる。これらは本当に未完なのだろうか。もうこれで十分だったのではないか。あきらかに、ターナーは 誰も見たことのない夢を見ていた。その夢は、画家の心の奥底ではなく、画家が世界と出会う原点でしか見ることのできない、眩しい夢だ。光は画家の内面を照 らし出したりはしない。そのような内省からはるかに遠いところにターナーは到達していた。その明るい孤独を思うとき、私は胸が痛くなる。彼は孤独のなかに 沈み込むようなことはなかった。孤独のなかに、光とともに、自ら溶け出したのだ。光に溶け出すには、自分の身を透明にするしかない。最後のターナーは、 きっと自分が存在することさえ忘れかけていた。そして、そっと消えていったのだろう。

画像1.ターナー「ポリュフェモスとユリシーズ」[油彩・キャンバス 132.5×203 1829年]ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵
画像2. ターナー「雨、蒸気、速度」[油彩・キャンバス 91×122 1844年]ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵
画像3.ターナー「セント・ベネデット」[油彩・キャンバス 61.5×92 1843年]テイト・ギャラリー 所蔵
(画像出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/)




【第6回】 絵画の意味と標題 (2006年1月10日)


絵を見るとき、あるいは彫刻を鑑賞するとき、まず作品を眺めてから、題名を確認する癖が、おそらく誰にでもあるはずだ。場合によっては、題名を見てから、 再びその題名と合致する特徴を探して、作品を見直すことさえあるだろう。逆に、作品に標題がないと、不安になる。題名は、自分の解釈に正統性を与えてくれ る。と同時に、先入観を植えつけることにもなる。

これは、絵画に関する限り、ごく自然な欲求と言えるだろう。絵画は、永らくテクストの挿絵だったからだ。ヨーロッパ絵画の起源は、中世の聖典写本の彩色装 飾(enluminure)である、と美術史は教える。絵は、あくまで言葉の理解を助けるために描かれた。絵は言葉の代用品であり、象形文字を見れば判る ように、文字の前身だった。大事なのは、現在に至るまで、絵はメッセージであるということだ。逆に、メッセージを解読できないところに絵は成立しない。壁 のしみと抽象画の違いは、そこにある(ゴンブロヴィッチの長篇『コスモス』は、まさに壁のしみに勝手なメッセージを見出すことによって、不条理な結末に至 る)。

東洋の文人画では、絵画ははっきりと文学に従属するものである。まず画面に言葉が書き込まれる(賛)。これは書家や学者が書く場合もあれば、画家自身が書 写する場合もある(自画自賛)。賛は、絵の内容を説明するものであり、ときには、あらかじめ書かれた賛に、後から絵を付け加えることもある。文人画では、 絵は、芸術表現としての書と、その内容である文学から独立した存在ではあり得ない(詩書画三絶)。絵画表現は、あくまで文学的教養の発露として披露しなけ ればならないのだ。標題が絵を説明するのではなく、絵が標題を説明するのである。

だ が、ここでは話を西洋絵画に限ろう。標題がいかに絵画の解釈を決定するか、ということに関して、アルノルド・ベックリーンの『死の島』の生成過程を確認し てみよう。バーゼル美術館所蔵のこの作品は、暗い海(あるいは湖)に浮かぶ島に向かって、白い人影を乗せた艀が接近している様子を描いたもので、制作して いる最中、ベックリーンはかりそめに『静寂の地』あるいは『墓の島』と名づけた。それをDie Toteninselという喚起力に富んだタイトルに替えたのは、画商である。ちなみに「死の島」は、厳密には誤訳で、「死者の島」と訳すべきである。日 本で大正時代に紹介されたときには、「黄泉の島」と題されていた。この誤訳から出発して、福永武彦は長篇『死の島』をヒロシマと押韻して展開させるに至っ た。

標題は固有名詞である。だが、一つの標題が一つの絵画を指すわけではない。『死の島』は、発表当時から大人気を博したため、同名の、ほぼ同じ構図の絵が、 ベックリーン自身によって5つ制作されたことが知られている。さらには銅版画も複数制作された。そうした単色版画の一つをパリで見かけて、セルゲイ・ラフ マニノフが1909年に交響詩『死の島』を作曲したのである。「死の島」という標題には、このように複数の作品が呼応している。ラフマニノフの作品も含め て、『死の島』は一つの「トポス」を形成する、いわばマルチメディアの産物となったのである。

以上のことを整理してみる。第一に、標題は絵画の解釈を誘導する(「死者の島」=冥府の表現という規定)。第二に、標題は複数の絵画あるいは異なる表現様 式に属する芸術作品を関連づける(複数の『死の島』の存在)。第三に、標題は絵画を隣接する諸作品や物語と結びつける(神話の喚起)。マルグリット・ユル スナールが、『死の島』を評して、「ベックリンは死者の集まる島を探した」と述べ、レーテー(忘却の河)のイメージを読み込もうとするとき、彼女は明らか に題名に誘導され、死と水の風景から神話を連想している。また、この題名ゆえ、この絵にギリシア神話の冥府の渡し守カロンを見出す人もいれば、フィンラン ド神話『カレワラ』のトゥオネラと関連づける人もいた。いずれも「死」のイメージに強く誘導されたものだ。

第二の点については、私はベルギー王立美術館所蔵の「シューマンを聴きながら」というクノップフの絵を思い出す。ソファーに座った黒服の女が、額を右手で 押さえながら、画面左奥で演奏されているピアノを聴いている絵なのだが、もしこれがシューマンでなかったら、たとえば「ハイドンを聴きながら」と題されて いたら、はたして私は画面に同じだけのメランコリーを見出すことができたかどうか、心許ない。あるいは、「ヤナーチェクを聴きながら」と題してみれば、メ ランコリーが一層強まるような気もする。こうなると、絵画の解釈は、言葉だけでなく、音楽的記憶にも左右されてくる。ベックリーンの『死の島』も、ラフマ ニノフによる同名の交響詩を知っているかどうかによって、絵の印象も変わってくるはずだ。

上記の三つの点を別の側面から考えると、次のようになる。第一に、標題は、画布上に展開された純粋に絵画的な表現に、余分な意味を付与する。第二に、標題 は、画布の自己完結性を破り、解釈を偏向させる。第三に、標題は絵画に物語性を与える。こうしたことを否定的に捉える鑑賞者や芸術家にとっては、標題は無 駄な要素にすぎない。抽象画に多い「無題」とは、そのような純粋主義によるものである。

絵画の純粋主義とは、絵画が外界の参照物をもたずに自立する空間を確立することを目的としている。事物の模写はもちろんのこと、言葉の介入も許さない。そ もそも、模写は模写にすぎず、現実とは切り離されている。また、言語が指示するものと絵画が指示するものは、異なる記号システムに属しているのだから、一 致しなくて当然だ。鑑賞者は、ただひたすらに画面を眺めていればよい。そして、そこに何も見出さないことに、自由の快感を覚えればよい。そういう考え方も あるだろう。事実、具象画でも、題名のない作品はいくらでもある。

ル ネ・マグリットは、パイプの絵の下に、「これはパイプではない」と文字を記した。これは、一般には、絵画を現実の表象と考える向きへの挑発と看做されてい る。鑑賞者が見ているのは、パイプの絵であって、パイプではない。パイプの絵はパイプそのものからは独立した存在である。絵画は現実には依拠しない、とい うわけだ。しかし、鑑賞者は「これはパイプではない」という言語メッセージも同時に受け取る。ここに問題がある。もし、絵画が現実の表象ではないのなら、 この言葉もまた現実には何ら対応物を持っていないと考えてもいいはずではないか。だとすれば、「これはパイプではない」という言葉の意味は、結局は、現実 のパイプと画面に描かれたパイプの類似性に、依拠していることになる。パイプの絵は、パイプそのものからは独立しているかもしれないが、パイプという言葉 からは独立していない、ということになる。

では、もしマグリットがパイプの絵だけを描いたとしたら、どうなるのか。そのとき、鑑賞者はそれをパイプの表象として受け止めるだろう。ということは、結 局、そこに「これはパイプである」という意味が発生する。パイプではない物、たとえば、リンゴの絵の下に「これはパイプである」と記した場合、画面と言葉 の不一致ゆえに、「これはパイプではない」という意味が連鎖的に発生するだろう。逆に、リンゴの絵の下に「これはパイプではない」記した場合、画面と言葉 は一致しているが、なぜ「パイプ」という言葉が出てくるのか分からなくなる。こんなややこしい組み合わせをわざわざ考える唯一の利点は、絵と言葉の意味が 重なる範囲がどこにあるのか、判ってくることにある。否定形の標題が、反語的な意味合いをもち得るのは、それが画面上の要素と明らかな意味のつながりを 持っているときのみである。そのほかの場合は、標題は絵の意味を規定するはたらきをもつ。

芸術作品は、意味によって規定される。自然物(壁のしみや岩の突起)との違いはそこにある。意味は、一方で芸術家によって意識的に与えられ、他方で素材そ のものから発生する。プルーストの『失われた時を求めて』に出てくる小説家ベルゴットは、フェルメールの『デルフトの眺望』を見て、黄色い壁面がそれだけ で独立した価値をもっていることに衝撃を受けた。それは、おそらくフェルメールが意識的に与えた意味ではなく、画面が生み出した意味、あるいは鑑賞者の解 釈が与えた意味である。芸術の価値は、こうした重層的な意味を一度に実現するところにある。どれか一つの意味を重視することはできるが、そのことによって 他の意味を無視してはならない。私がクロード・ロランを好むのも、彼が描いた物語の一場面(たとえば、ルーヴル所蔵の『ユリシーズの帰還』)のためではな く、画面の内側から放射するような光の表現のためだ。だが、同時に、私の感動は、ただ金色の光だけに拠るのではない。その色彩が、全体の構成のなかで、ま た描かれた物語において、正確な位置を得ていると感じるからである。つまり、水平線の彼方から煙る黄昏が、あたかも人々の思惑とは無関係に、まだ誰も知ら ないユリシーズの帰還を、勝ち誇るように照らし出しているからこそ、私はその黄金をとりわけ美しいと思うのであって、その黄金だけを取り出してみても、同 じような感動は得られないはずだ。

一枚の絵を前にして、標題を確認し、自分の記憶のカタログに追加する。それは、近代の美術館の制度のなかで生まれた習慣にちがいない。だが、それが現代の 私たちにとって、ほぼ唯一の鑑賞作法なのだ。そのとき、絵を見ることと、絵の意味の探究は切り離せなくなる。標題から出発して、どうやら私は図らずも「絵 画の現象学」とも言うべき難題に突き当たってしまったようだ。いろいろなケースについて、今後も検討していくべき課題として、今回はこの辺で筆を擱くこと にする。




第5回】 ボナールの不幸 (2005年9月20日)


先月、以前住んだことのあるトゥールーズを再訪する機会があったので、市内のバンベール美術館Fondation Bembergを訪れた。じつは、前回の留学中、行く予定にしていた前日にアメリカで同時多発テロが起き、翌日、「安全上の問題」で急遽閉鎖されてしま い、とうとう見ることができなかった経緯がある。ルネサンス様式の建築そのものが美しいこの私立美術館で、私はイタリア・ルネッサンスからフランス近代絵 画まで、きわめて質の高い所蔵品をようやくにして鑑賞した。とくに、最上階に数十点まとめて展示されているピエール・ボナールの作品を見て、年来好きだっ たこの画家をじつは私は理解していなかったのではないか、という気にさせられた。今回は、そのことを書き留めておきたい。

周知のとおり、ボナールは、20歳の頃、パリの美術学校アカデミー・ジュリアンに通い、そこで知り合った友人たちと「ナビ派Les Nabis」なるグループを結成した。ナビ派は、ゴーガンを師と仰いでいた。これは重要な点である。というのも、ゴーガンは現代的な意味における象徴主義 絵画の開祖だからだ。

象徴とは、一般に「対象と純粋に慣習的な関係しかもたない記号」と定義される。たとえば、鳩は平和のシンボルだが、それは鳩が平和に似ているわけでもなけ れば、平和と同じジャンルに属するからでもない。鳩と平和の結びつきは、慣習によってのみ支えられていると言ってよい。古典的な象徴主義とは、この「慣 習」を遵守するものだった。マリアの衣の青が純潔を表わす、といった具合に、シンボルとは約束事にすぎなかった。

ところが、近代になって、きわめて個人的なシンボルを創造する芸術家たちが出てきた。文学史でいえば、ボードレールが「コレスポンダンス」(照応)という ことを言い出して、「慣習」にとらわれないシンボルを作り出すことに成功した。かくして、詩人は恋人の髪のなかに、森や海や空を見出すことになる。これ は、シンボルが潜在的にもつ喚起力を、まさに慣習から解放しようとする試みだった。私が関心を寄せるのも、この後者の意味での象徴主義である。

フランス近代絵画において、こうした私的象徴主義の道をはっきりと切り拓いたのが、セザンヌとゴーガンだ。ルネサンス以降確立したリアリズムの約束事(一 点に収斂する遠近法、光源の一致、色彩の配置など)は、じつは何も根拠がなく、ただの慣習にすぎないことを、二人のポールは示そうとした。色彩も描線も視 点も、各々の画家が、自分の表わしたいように描けばよいのであって、空はいつも青いわけではないし、草原はいつも緑なわけではない。さらに言えば、見ると いうことは、必ずしも一瞬のうちに終わる行為ではない。それゆえ、複数の視点が一枚の絵画に介入することは、むしろ当然のこととなる。エミール・ベルナー ルの統合主義synthétismeなどに理論的刺激を与えられながら、絵画はこうして抽象への道を歩み出したのである。

ボナールの出発点は、以上のようなコンテクストのなかで捉えることができる。とはいえ、同じナビ派に属するポール・セリュジエやモーリス・ドゥニが推進し た絵画理論には、ボナールはあまり関心を示さなかった。ボナールが何よりも惹かれたのは、日本の浮世絵である。その点では、彼は一世代前のモネやホイッス ラーやゴッホと似ている。版画に熱中したボナールは、自ら商業デザインの現場で仕事をするようになり、マラルメも参加した雑誌『ルヴュー・ブランシュ』の 表紙や、ヴェルレーヌの詩集『平行に』の初版挿画などを手がけた。

ボナールの初期の油絵は、縦長のカンバスを用い、人物が画面の途中で切れるなど、浮世絵的な手法が随所に窺われる。また、室内の風景を題材にし、日常の一 瞬を切り取った構図には、写真の影響を看て取ることもできるだろう。ただし、彼は浮世絵流の線描からしだいに離れ、色彩の配置によって、あるムードを作り 上げる方向へと、作風を変えていくことになる。そのムードとは、日常の平穏さである。


とはいえ、ボナールの室内画は、同様に日常風景を描いたフェルメールの室内画とはまったく違う。フェルメールの目は、焦点を一点に合わせる優れたレンズ だった。それに対して、ボナールのレンズは焦点が甘い。遠近法の規則も守られていないし、全体がいつもぼやけている。近視の画家は、まるで眼鏡を外して絵 を描いていたのではないかと思われるほど、色彩の溶解にこだわった。にもかかわらず、彼は目の前にある自然から離れようとはしなかった。生涯の親友だった もう一人の「アンチミスト」エドゥアール・ヴュイヤールが、しだいに室内の装飾的なモチーフの反復性に惹かれていったのに対して、ボナールはあくまで彼独 自の色彩で実際の室内の様子を再現しようとした。つまり、絵画のなかに人工的な「わざとらしさ」を導入するのを嫌ったのである。この態度が、キュビズムと シュールリアリズムの時代に、ボナールを絵画の最前線から遠ざけることになる。

ボナールは芸術のために殉教することを潔しとしなかった。絵画制作は、人生の実現であると同時に、仕事でもある。だから、カンバスに向かうときには、必ず ネクタイを締めた。妻マルトが神経症の治療のため、日に何度も入浴するのをいいことに、彼は盥にうずくまる、あるいはバスタブに横たわる裸婦像を何枚も、 飽くことなく描いた。日常生活と芸術は、彼のなかでは矛盾しなかったのではないかとさえ思わされる。Bonnardとbonheur(幸福)の発音が似て いることに、何か意味をこじつけたくなるほどだ。

それだけに、トゥールーズで最晩年の自画像を見たときには、激しい衝撃を受けた。目を黒く塗り潰され、肌は病んだように黄ばみ、薄くなった髪は青みがかっ た白で描かれている。口元は何か言いたいことを押し殺したように固く結ばれている。画家は茶色のガウンを着て、前屈みになっている。背後には、彼の得意と した暖色系の壁紙ではなく、浴室の冷たいタイルが並んでいる。日付は1945年となっている。死の2年前に、なぜこのような絵をボナールは描いたのか。

一つの手がかりとして、1942年に妻マルトが死去した事実が挙げられるだろう。ボナールがマルトに出会ったのは、1893年である。二人は入籍しないま ま、一緒に暮らしていた。1925年のある日、友人が「結婚したくないような女」と陰口を叩くのを聞いてショックを受けたマルトは、帰宅してピエールに泣 きついた。その翌日、二人は正式に結婚の手続きをしたという。マルトが死んだ後、ボナールは彼女の部屋に鍵をかけ、誰も中へ入れようとしなかった。モデル を失ったボナールは、これ以降、風景画ばかり描くようになる。

このような激しい愛の経験は、ボナールにおそらく二つのことを教えたはずだ。一つは、日常の肯定である。彼は「この世の外に」(ボードレール)理想郷を探 しに行く必要がなかった。あれほど抽象画に近い色使いを実現しながら、彼が抽象に無関心だったのは、おそらく自分の生活を支えている日常を離れる必要を感 じなかったからだろう。もう一つは、日常の限界である。目の前にある風景は永遠に続くものでなく、具象画は、過ぎ去りいく一瞬を記録することはできても、 時間を超越することはできない。妻の死は、自分の死をも予告する。そのときボナールが鏡の中に見出したのは、すでに老人となった画家の姿だった。

この自画像は、レンブラントの自画像を想起させずにはいられない。画家の眼差しは、自分が見たものを裏切ることができない。鏡に疲れた老人が映っていれ ば、疲れた老人を描くしかないのである。ただし、生涯にわたって自画像を描き続けたレンブラントと違い、妻を描き続けて自らを描くことの少なかったボナー ルは、彼女の死後、久しぶりに鏡のなかに自分を見出した。愛する者を失いながら、なおも生きている自分を見出したボナールの自画像には、どうしようもない 淋しさが漂っている。この自画像は、老醜を晒すのでも、自己弁護をするのでもなく、人生の終りに一人きりでいるのは淋しいということだけを、はっきりと伝 えている。

晩年のボナールは不幸だった。しかし、画家の不幸を、妻との死別にのみ還元してはならない。画家が不幸だとすれば、それは画業において不幸だということを 意味するのでなければならない。ゴーガンは、家庭人としては破滅したが、その代償として、かつていかなる西洋画家も手に入れることのできなかった色彩を得 た。その意味では、幸福な画家だった。ボナールの場合、象徴主義的な手法を採用しながら、抽象の道を拒んだことが、不幸の原因の一つだった。モデルを必要 とする絵画は、モデルの変容に左右される。愛する女をモデルに日常を描き続ければ、その女の死とともに、日常までもが終わってしまう。その日常のムード が、まさに画家の目的だったとすれば、それは危機的な状況である。晩年の自画像に漂う淋しさの正体は、目的を失った画家の淋しさだったのではないか。

だが、この晩年の自画像から、マルトとともにボナールが達成した幸福な象徴主義の成果を過小評価することも、また慎まなければならない。概して、象徴主義 者は、現世否定的である。この世に不満があるからこそ、世界を創り変えようとするのが、彼らの芸術の動機だった。だが、この世に不満がなくても、芸術を作 る意味はあるのだということを、ボナールは教えてくれる。思い上がった、あるいは思い詰めた芸術至上主義に対して、ボナールはその人生と画業を以て、それ 以外にも豊潤な道はあるのだということを示した。ボナールの不幸、おそらくそれはまた、ボナールの幸福でもあった。




【第4回】 ロマネスクの園 (2005年6月16日)


2005年3月10日から6月6日にかけて、ルーヴル美術館でLa France Romaneと題する展覧会が催された。副題に「初期カペー朝時代、987年から1152年まで」とあるとおり、フランスにおけるロマネスク美術の変遷を 網羅した展覧会である。宗教美術だけでなく、靴やコップといった工芸品も含めて、ロマネスク世界を一眸のもとに眺める、得がたい機会だ。事実、このような 展覧会は、フランスでも初めての試みとのことである。

ロマネスク美術に関しては、永らくパリの歴史的建造物博物館Musée des monuments françaisが、フランス各地のロマネスク教会の彫刻の石膏模型を展示していた。この博物館は閉鎖中であり、そのうち何点かは今回の展覧会にも出品さ れていた。2004年の秋には、クリュニー美術館でボイ渓谷の木彫を集めた「カタロニア・ロマネスク」展が開催されたが、やはりボイといえば、バルセロナ のカタロニア美術館に移動・保存されている壁画群が圧倒的で、どうしても見劣りしてしまう。それに、クリュニーの所蔵品自体は、ほとんどゴシック以後であ り、かろうじてミゼリコルドmiséricordeに、ロマネスク的表現を見出すことができるにすぎない。

ロ マネスク美術といっても、その中心が教会建築にあることは、周知のとおりである。ロマネスク教会の魅力は、大きく言って三つある。第一に、その建築的要 素。半円形アーチで構成された身廊の美しさや、鐘楼のデザイン、周歩廊やクリプトの構成など、さまざまな要素をまとめて一つの教会として機能している全体 が、それ自体で大変面白い。第二に、その彫刻群。タンパンや柱頭や軒持送りに刻まれた彫刻は、非リアリズムの産物であり、徹底的にデフォルメされた形態 は、現代人の想像力をはるかに超えている。専門家でさえ主題を同定できない彫刻が数多く存在する。第三に、その立地条件。ロマネスク様式が確立された10 世紀後半は、修道院の時代でもあった。そのため、教会は町の中心ばかりでなく、しばしば山間の難所に建てられた。教会の美的価値はそのロケーションを無視 しては測れない。サン=ギレム=ル=デゼール修道院など、その典型だろう。

そもそも私がロマネスク美術に興味を抱いたのは、二十歳の頃に読んだ一冊の旅行記のおかげだった。高坂知英『ひとり旅の楽しみ』(中公新書、1976)、 著者は理系の図書編集者で、有給休暇をやりくりしてヨーロッパを旅し、その感想を一冊の本にまとめた。後に同じ出版社から『ひとり旅の知恵』(1978) と『ひとり旅の手帖』(1983)を、さらに講談社現代新書から『ひとり旅の設計』(1986)を上梓している。僕が彼の本から学んだことは数多いが、そ のなかでも、ロマネスク教会に関する記述は、著者の愛着が最も深い部分であることが看取され、気になった。高坂氏は後年『ロマネスクの園』(リブロポー ト、1989)という彼自身の手による美しい写真を満載した案内書まで出している。「二〇年間で千を超えるロマネスクを見た」というから、その情熱には脱 帽するしかない。1998年に惜しくも亡くなった際には、彼の友人だった加藤周一が、『夕陽妄語』で心のこもった追悼文を書いた。

かつてトゥールーズに住んでいたこともあって、私は南仏のロマネスク教会をいくつか見て回ったことがある。また、フランスのみならず、イタリア・スペイ ン・ドイツなどでも、ロマネスクを目当てに旅を続けてきた。したがって、私のロマネスク愛好は、旅の感興と切り離せない。今回の展覧会も、個人的にには、 美術作品としての美しさや独創性に打たれるよりも、こうした作品を「現地で」見てみたいという、旅への誘いとして作用した。ちなみに、私が今まで見たなか で最も感激したのは、ポー近郊のレスカールLescarの教会である。この教会の写真が、先述の『ロマネスクの園』の扉に使われているのを見て、我が意を 得た思いがしたものだ。

今回のルーヴルの展覧会の特徴は、建築的要素を思い切って無視して、柱頭彫刻や、聖遺物を入れる容器、主教使用の杖の柄など、展示可能なものだけで構成し たことだ。とくに羊皮紙に描かれた典礼書の類は、ふだんは図書館や教会のアーカイブに保存されていて、専門家以外は見ることができないものであり、大いに 楽しませてもらった。また、いたずらに中世の複雑なシンボル体系を詳説しようとはせず、美学的な注意を促すにとどめている点にも、潔い印象を受けた。会場 は年配の参観者で賑わっていた。世界的観光地のルーヴルなのに、フランス語以外は聞こえてこなかった。私と同様、かつて実地に教会見物をしたことのある愛 好者が集っているようだった。

ロマネスク彫刻や絵画を見るたびに、かつてローマ人が築きあげたあの写実の技術は、どこに行ってしまったのだろうかという疑問にとらわれる。ロマネスク は、徹底した象徴主義の美術である。シンボルをはっきり伝えるためなら、突然手のサイズが身体の半分ほどに巨大化しても構わない。必要な要素を柱頭の限ら れたスペースに彫り込むためなら、遠近法や視点の統一など無視しても構わない。かくして、二人の人物の横顔の間に、テーブルが真上から見た角度で表現され ることになる。いったい、中世に何があったのか。アラビア美術やビザンチンの影響を語る人もいる。だが、アラベスクやイコンは、ロマネスクの奇怪で生々し いデフォルメからはほど遠い。今回展示された10世紀末の象牙細工の磔刑像は、一方で均整のとれた人物像を提示しつつ、他方で四人の福音史家の頭部が、そ れぞれのシンボル(マタイ=天使、ルカ=牛、マルコ=ライオン、ヨハネ=鷲)に変身している。これはカロリング美術からロマネスクへの移行を示していると いう。つまり、非リアリズムの時代への突入である。美術史家のアンリ・フォシヨンは、ロマネスクと私たちとの間には、感性の断絶があると述べたことがあ る。ゴシック以降は我々の感性の延長線上で捉えられるが、ロマネスクの想像力の質は、まったく別物である、と『中世美術』の著者は断言していた。

ルーヴルの展覧会は、おもに前半部でロマネスク美術の社会的背景を説明し、後半部で各地方の特色を紹介している。社会的要因は、大きく言って三つ ある。第一に、聖人信仰。初期キリスト教では、殉教者や奇蹟を起こした聖人を崇めて、祈りの対象にすることはなかった。しかし、10世紀頃から、しだいに 聖人信仰が浸透する。マリア信仰もやや遅れて定着した。大量の教会建造は、こうした聖人信仰に対応したものと考えられる。第二に、サンティアゴ巡礼の興 隆。巡礼者は聖職者に限らず、信仰心の厚いあらゆる職種の人間がヨーロッパ中、ことにフランスとスペインを移動した。人の移動によって、文学から工芸技術 まで、さまざまな文化が多方向に伝播したことが、ロマネスクの様式に多様性をもたらした。第三に、先に述べたように、修道院運動の興隆。ベネディクト派を 嚆矢とし、クリュニー派、シトー派を経て、フランチェスコ修道会に至る教会刷新運動は、キリスト教の価値体系を決定した。ロマネスクの過剰なまでの象徴主 義は、修道院内で錬成された神学の成果とも言える。

一方、ロマネスクの様式が、地方によって著しく異なることは、私自身の乏しい経験からも、確実に言える。鐘楼だけに注目してみても、トゥールーズとポワ ティエとセレスタでは、八角形、どんぐり屋根、四角錐と三角錐の組み合わせと、それぞれに異なる。これにさらにスペインやイタリアの作例も考慮すると、事 態はさらに複雑になる。「白い奇跡」と称されるピサの華麗な教会と、クレルモン=フェランの黒い火山岩の教会が、どうして同じロマネスクと呼ばれるのか、 思わず首をかしげてしまうくらいだ。様式の地方差は、彫刻の襞や髭の表現、さらには扱う主題にまで及ぶ。この点で、世俗主題ほど面白いものはない。ブドウ を摘み、足で踏み、樽に流し込む行程を描いた柱頭彫刻がブルゴーニュ産というのは、とても納得がいくし、ピレネー山麓オロロン=サント=マリーの教会のタ ンパンに、鮭の捕獲と酢漬けの行程が彫り込まれているのも、よく分かる。これらの労働風景は季節を表わし、季節は神のみが支配できる時間の表れである。そ れゆえ、こうした主題を彫り込むことは、神の賛美につながるのである。

中世美術がフランスで再評価されたのは、ロマン主義の19世紀である。ギリシア・ローマを規範とした貴族的な古典主義への反動から、中世と民衆というテー マが脚光を浴びた。ヴィクトル・ユゴーの『パリのノートルダム大聖堂』は、まさにそうした流れに棹さすものであった。プロスペール・メリメは、政府の史跡 保存調査官でもあり、彼が救ったロマネスク教会は数知れない。メリメが介入しなければ、モワサックの珠玉のごとき回廊も、鉄道建設のために取り壊されると ころだった。ヴィオレ=ル=デュックやエミール・マールが登場し、ロマネスク研究はしだいに本格的なものになっていく。もちろん、教会関係者による資料の 整備や、考古学的な発掘作業も、この時代の精神を解明するうえで、欠かせない作業である。ロマン派好みの「中世の無名の職人たち」も、最近の研究ではずい ぶん名前が明らかになってきている。先日、中世美術の保存に携わっているフランス人と話をする機会があったが、最近の学会やシンポジウムでも、聖職者が多 く参加しているとのことだった。そういえば、ロマネスク行脚に不可欠な「ゾディアック叢書」の執筆者も、大半が学僧である。

それにしても、なぜ私はロマネスクが好きなのだろうか。これはフランス人と話をしていると、必ず訊かれることだ。「キリスト教徒なのか」と問い質されるこ とさえある。何かを好きな理由は、何かを嫌いな理由よりも説明しにくいものだが、少なくともロマネスク教会に入ると、なぜかほっとする。何か懐かしい感じ がする。ただし、この懐かしさは、既知のものに出会う懐かしさではなく、自分が経験していない過去の世界に対する懐かしさである。これはじつに不思議な感 覚で、私はいまだにうまく説明する言葉を持ち合わせていない。いかなる信仰をもたず、祈り方も知らない私にとって、ロマネスク美術は、他の宗教美術とは違 う、特別な存在である。ロマネスクを通して、私は神の存在に近づくのではなく、神に向かって祈る中世の人々の気持ちに近づいていく感じがする。心のどこか に、そのような敬虔さに対する憧れがあるのかもしれない。それでは、なぜ異国の地のロマネスクなのか。なぜ、もっと親しいはずの日本の仏教美術ではないの か。その謎が解けたとき、はたして私は神を信じるようになるのだろうか。

画像1.クリュニー美術館所蔵のミゼリコルド
画像2.
ルーヴル美術館所蔵の柱頭彫刻
(いずれも著者撮影)




【第3回】 サイズの問題 (2005年4月5日)


前回の冒頭で、美術館に行く愉しみの一つに、有名な作品を確認しに行くことがあると書いた。しか し、これは本来奇妙な事態ではないだろうか。見たことのないものを知っている、というのは明らかに矛盾である。もちろん、私たちは複製によってそれらの絵 を知るのだが、それで「見た」気になってしまう。では、複製では見られないものとは何だろうか。

構図と色彩は、写真で確認できる。実物の記憶だけを頼りに研究する美術史家など、もはや一人もいないだろう(素人の私は、一枚の絵葉書もない状態でこの文 章を書いているが)。ディテールの研究など、むしろ写真版の方が有利かもしれない。絵具の盛り上がりというような立体的な要素は、写真では判りにくいが、 補足的な説明があれば、それほど致命的な欠陥にはならない。そうなると、あとはサイズの問題だけが残る。

これは、いくら何センチ×何センチと言われても、実物を見ないと想像しにくい。大作になればなるほど、大きさの感覚が掴みにくくなる。私がはじめてサイズ に圧倒されたのは、ルーヴル美術館でヴェロネーゼの『カナの婚礼』を見たときだ。なにしろ、壁の端から端まで一枚の絵が埋め尽くしているのだから、驚くの も無理もない。後に『ルーヴル美術館の秘密』という1990年の大改装を取材したドキュメンタリー映画で、この絵の運搬作業の様子を見ることができた。な んと絨毯のように、くるくると巻いて運んでいた。これには、さらに驚かされた。だが、考えてみれば、板張りを外せば、カンバスとは布にすぎないのだから、 当然である。

絵画のサイズを決めるのは何か。まず、絵画が掛けられるはずの注文主の邸宅の条件がある。このサロンに合う絵、この大階段の踊り場を飾る絵、という風に、 制作される前から、あらかじめ決められていることが多い。レオナルドの『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ=マリア・デレ・グラッツィエ教会の食堂を飾るた めに、ルーベンスの『聖母被昇天』は、アントワープ大聖堂のクーポールを飾るために、それぞれ依頼によって描かれた。この場合、絵のサイズは、食堂やクー ポールの規模や形状に制限される。

特定のパトロンを持たない画家も、ある程度の注文を見込んで制作する。まずギャラリーで展示可能な大きさでなければならないし、顧客がそれを見て、自宅に 展示できなければならない。美術館の依頼で制作する場合には、画家にはもう少し自由があるだろうが、それでも、空間の制限はある。ラウル・デュフィの『電 気の妖精』やシケイロスの諸作品のような巨大な壁画を、誰もが好き勝手に作れるわけではない。画家が途方もなく大きな絵を、注文もなく描き出したとした ら、それはもはや売ることを念頭に置かずに描かれたものと考えていいだろう。

三次元の表現の場合はどうか。現在活動中の美術家で、ロン・ミュエク(Ron Mueck)というイギリス人がいる。TV番組などの模型制作者だったミュエクは、本来のサイズと釣り合わない人物像をファイバーグラスなどで緻密に再現 する仕事を続けている。たとえば、リヴァプールのテート・ギャラリー別館にある作品では、スクール水着を見た女の子が恥ずかしそうに壁にもたれている。だ が、彼女の内気さと不釣り合いに、その身長は2メートル以上あるのだ。また、「連続と侵犯」と題された企画展によって日本国内で展示された赤ん坊は、よだ れを垂らして目を見開いて、いかにもあどけないが、そのサイズは鑑賞者の大人たちよりもはるかに巨大だった。ミュエクの作品を見ると、私たちは居心地の悪 い笑みを浮かべざるを得なくなる。居心地が悪いのは、いずれも無防備な状態を拡大して一目に曝しているからだ。笑いについて言えば、サイズの不調和は、ス ラップスティック・コメディーの原則でもあって、チャップリンがぶかぶかの服と靴を履き、ミスター・ビーンが寸詰まりの服を着ているのは、同じ原理によ る。漫画では、この原理はさらに著しいデフォルメをもって応用される。

芸術作品の巨大化は、クリストのような「アース・アート」において極まった。ドーバーの断崖に布を掛けて、それが芸術だというのなら、これほど巨大な芸術 作品はない。それはほとんど環境破壊を芸術と呼ぶアイロニーに近い。人の手によって自然の見方を変えるのが芸術だと主張するなら、酸性雨で禿げ山になった 山林の姿ほど、見事な芸術はないということになるだろう。アース・アートが、どこか企画倒れの滑稽さを免れ得ないのは、先ほど説明した笑いの原理のせいで もある。要するに、不必要に大きいのだ。オランダのクレラー=ミュラー美術館では、広大な敷地の散歩道の途上にいくつものオブジェを野外展示していて、そ こで私は高さ3メートルにおよぶ青いスコップが地面に突き刺さっているのを見て、絶句したことがある。これも不必要の笑いである。

比較文学研究では、美術と文学を、テーマの観点から共通項を考察することが多い。この詩とこの彫刻は同じ神話を扱っているとか、この小説の人物像はこの絵 の誰某に似ているとか、あるいは作中に登場する絵の描写(エクフラシス)がこの画家を想像させる、といった具合に、表象されているものを付き合わせて比較 する。だが、作品のヴォリュームというものは、往々にして軽視されがちである。せいぜい、大作は費やした時間が長いから、作者の愛着も深いだろう、という 程度の評価に過ぎない。だが、実際には、私たちは絵画の物質的な迫力というものを、鑑賞のなかに採り込んでいるはずだ。ニューヨーク近代美術館にあるジャ クソン・ポロックの諸作品は、そのサイズを無視して評価することはできない。「アクション・ペインティング」は、人間の肉体の条件に著しく制限された手法 だからだ。もしサイズが30センチ四方程度だったとしたら、ポロックの絵画は小手先のアイデアという印象しか与えなかっただろう。

しかし、そもそも美術作品の適切なサイズというものを、私たちはどのようにして取り決めるのだろうか。別の言い方をすれば、サイズに関する「期待の地平」 は、いかにして形成されるのか。美術のリアリズムにおいて、実物大という概念は別段尊重されるわけではない。トロンプイユ(騙し絵)などは、むしろ例外に 属する。三次元で表現する彫刻においてさえ、そうである。ジョージ・シーガルの等身大の人物像が衝撃的なのは、それが石膏という現代人に見合った安っぽい 素材によるからだけではなく、サイズのためでもある。シーガルの作品では、扉や台所の流しや信号機の現物が、付属品として設置される。日常の一コマを切り 取り、それを原寸大で美術館の抽象的な空間に展示するとき、私たちの生活が無惨なまでに退屈で美しくないことが露呈されてしまう。逆に言うと、本来、サイ ズの操作は、芸術が現実とは違うレベルにあることを分からせる、もっとも手っ取り早い手段なのである。

もちろん、絵のサイズの正当性を、対象物のサイズから定義するのは、あまりに単純な話だ。そもそも画家が事物を描くとき、その対象との間には必ず距離があ る。したがって、その距離を含んだうえで画家は対象を描こうとする。風景画でも、その遠近法のなかでは、事物の大きさは極めて妥当だと言えるだろう。逆 に、抽象絵画になれば、これはもう現実の対象物の参照を拒んでいる以上、この観点から議論を進めることはできない。ただし、黒地に大きな白い円を描いただ けの作品が、2メートル×3メートルなどというサイズだと、私にはその正当性を見出すことは、正直なところ難しい。

最初に、複製では伝えられないものは何か、という問題提起をしたが、シミューラクルの芸術を考えると、サイズとの関係は一変する。マルセル・デュシャン は、『ジョコンダ』の絵葉書に髭を描き足して、それを『L.H.O.O.Q.』という作品だと主張した。この場合、市販の絵葉書のサイズが、そのまま作品 のサイズと看做されることになる。もし実物の『ジョコンダ』と同じサイズの油絵を複製したとしたら、それは「髭のある贋作」でしかないだろう。デュシャン は単に髭によって既成の美の規範を揺るがそうとしただけでなく、そもそも絵葉書という手軽な複製が、すでに『ジョコンダ』を矮小化していることを利用した と言える。逆に、シミューラクルの元のサイズのせいで、赤瀬川原平は訴えられることになった。もし彼が、千円札を多少なりとも拡大または縮小してコピーし たなら、決して紙幣偽造の嫌疑をかけられたりはしなかったはずだ。だが、それでは赤瀬川の挑発が意味を成さなくなる。紙幣がすでに複製品でしかないことを 暴くために、彼はあの「偽札」を作ったのだから。

おそらく適正なサイズなどというものはないのだろう。多くの映画が2時間で終わり、小説が1冊で完結するのと同じように、『ジョコンダ』サイズの絵が好ま れるのは、ただ慣習に因るものであり、例外はいくらでもある。そして、それは必ずしも語られる物語や映像によって、正当化できるものばかりではない。それ でも、作品がひとたび生み出されてしまえば、もはやそのサイズにおいて評価するしかなくなる。繰り返して言えば、サイズは芸術家の意図のみを反映している わけではない。にもかかわらず、サイズは作品に決定的な文脈を作り出してしまう。何かを創造するということは、何もなかったところに一つの境界線を引くこ とだ。そうして占拠した空間との係わりを抜きに、美術は成立しない。

最近、ルーアン市観光局は、モネの大聖堂連作をピクセル画像で処理し、ライティングで大聖堂のファサードに照らし出す試みを、毎夏おこなっている。モネが 大聖堂を模倣したのではなく、大聖堂がモネを模倣するのだ。ここでは、サイズの問題だけでなく、日中の光の移ろいを画布に定着させようとしたモネの色彩 が、ほかならぬ夜間に映し出されるという点など、幾重にも倒錯した関係が見出されるだろう。芸術と現実は無関係に存在するわけではない。だが、その存在の 仕方は、芸術が現実に従うというような単純なものではない。サイズの問題は、そうした芸術と現実の関係を考えるうえで、多くの示唆に富んでいる。


【第2回】 ルドンの記憶の花束 (2005年2月20日)

 


美術館を訪れるとき、二つの愉しみがある。一つは、そこにある目当ての作品の実物を見ること。この場合、複製で見た通りであると確認するだけに終わるもの と、やはり実物は違う、と感動するものとがある。私にとって、ルーヴル美術館の『ジョコンダ』は前者の典型であり、ソフィア王妃芸術センターの『ゲルニ カ』は後者の範疇に属する。愉しみの二つ目は、それまで知らなかった作品や芸術家に触れることである。むしろ、こちらこそが美術館巡りの醍醐味と言ってい い。

オ ルセー美術館でのオディロン・ルドンの作品との出会いは、まさにそうした個人的な「発見」の喜びを私に与えてくれた。印象派の殿堂として有名なこのセーヌ 河畔の美術館には、最上階にパステル画を展示する別室がある。パステルは光に弱いため、暗く照明を落とした部屋でしか常設展示できないからだ。そこに、 ドゥガの傑作群と並んで、ルドンの作品が展示されている。(余談ながら、水墨画はさらに光に弱く、常設そのものが不可能であるため、私のような南画の愛好 者は、展示期間を逃がすと、次はいつ会えるか判らない状態で出展を待たなければならないというようなことになる。前回のフランス留学中に個人蔵の与謝蕪村 『夜色楼台図』が大阪で展示されたと聞いたときには、一瞬、そのためだけに一時帰国を考えたほどだった。今でも悔しい。)

ルドンは、19世紀末のいわゆる象徴主義の画家として知られている。作品数は少なく、神話や宗教的主題を描いたものが多い。その点では、ギュスターヴ・モ ローやアルノルド・ベックリンなどと通じるところがあるかもしれない。しかし、レンブラント風にドラマチックなモローの構図や、写実的な手法で不気味な気 配を伝えようとするベックリンに較べると、ルドンの絵は、どれもひそやかで、消え入りそうな儚さを漂わせている。それは、パステルのマチエールと見事に調 和している。

このひそやかこそが、ルドンの特徴といえる。そのひそやかさは、暗がりのなかで見ることで、さらに倍増されていた。実際、闇とルドンの絵画には、本質的な つながりがある。それは、ルドンの絵が、どれも目を閉じたときに見える幻を再現しようとしているからだ。別の言い方をすれば、記憶を刺激し、その記憶とと もに見ることが、ルドンの作品と向き合うときには、要求されるのだ。彼がギリシア神話や、ときには仏画までをも画題に採り込んだのは、それらの風景が、集 団的な記憶に刻まれた原初的な風景だからである。

その最も簡潔にして最高の例を、私は花瓶に挿された花々のパステル画に見出す。この絵を前にして、あのマラルメの呼び声を思い出さない人がいるだろうか。 「たとえば私が、花! と言う。すると、私のその声がいかなる輪郭をもそこへ追放する忘却状態とは別のところで、[声を聴く各自によって]認知されるしか じかの花々とは別の何ものかとして、[現実の]あらゆる花束の中には存在しない花、気持のよい、観念そのものである花が、音楽的に立ち昇るのである。」 (「詩の危機」、松室三郎訳)マラルメの「観念そのものである花」は、いかなる色も匂いももたない空白の花である。これに対して、画家には完全な空白は許 されない。そのとき、彼にできるのは、花の現前を遠ざけ、記憶の花束を作ることしかない。不在ゆえに咲き誇る思い出の花々。それが「音楽的」だとすれば、 それは音楽が、構成要素に還元できない一つの印象を伝えるものだからだ。ルドンの花束は、記憶の和音を静かに響かせる。それは実際に聴いてしまえば価値を 失う、まさに夢のような静寂の音である。

マラルメとルドンが実際に友人で、詩人がルドンの版画を評して「紫のように高貴な黒」と述べたこと、詩集『骰子一擲』にルドンが挿絵を付ける予定だったこ となどを、私は帰国後に画集を捲りながら学んだ。『ファブリ世界名画全集』のルドンの解説を書いていたのは、小説家の福永武彦だった。私はしばらく前から 福永の小説を読み始め、心酔とまでは言わないにしても、この作家に強い共感を抱いていたので、我が意を得たりと思ったものだ。福永は別のところで、ルドン の作品を「現実と夢の結婚から生れた影のような子供たち」と評している。ルドンは現実から逃避して夢のなかに救いを求めたのではなく、またウィリアム・ブ レイクのように熱狂的な幻視から世界を創造したのでもない。そうではなくて、夢というものがそもそもそうであるように、現実には到達し得ないものを暗示す るために、現実の記憶を借り出して、知的に画面を構成したということだ。

思えば、私が象徴主義というものを芸術作品として体験したのは、ルドンのパステル画が最初だったかもしれない。私は理論よりも先に、象徴が脳裏に作り出す 捉えがたい美を知った。絵は、もはや私の記憶を召喚する触媒にすぎない。だが、その触媒なしには、私は記憶の花束を私の内側に摘み取ることはできなかった のだ。なぜなら、芸術家の仕事は、混沌とした記憶とイメージの世界に、一つの論理を与えることなのだから。花がもつ輝きと儚さと微細な揺れ動き、そうした ものを描き得たとき、初めて鑑賞者の内部にもそれに呼応する記憶が動き出し、矛盾のないイメージが浮かび上がってくるだろう。問題は、その論理が、日常の 言葉で辿れるほど簡単なものではないということだ。だからこそ、画家や詩人の仕事が必要となる。

ルドンの本質は、油絵作品においても変わらない。たとえば、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークに、教会の薔薇窓の絵がある。ルドンには珍しくリアリズム的 な画題だと言ってもいい。だが、そのような場合でさえも、その薔薇窓はある特定の教会にあるのではなく、またモネの連作のように特定の時間帯を示すもので もない。それは北フランスにある、数多くのゴシック教会の記憶と結びついている。とりわけ、礼拝に通った敬虔なキリスト教徒には、その薔薇窓は幼年期の全 体を垣間見せてくれる窓となるだろう。「彼は理智、明察、悟性を信じた。客観的に物を見、物を見抜き、物それ自体のもつ真実を表現しようとした。外部の世 界を観察した。そういうことの結果として、内部の世界にも、外界と等価値の真実を発見したと言えるのである。」(福永武彦『藝術の慰め』)「物それ自体の もつ真実」の探究とは、物に結びついたあらゆるイメージの連結を見つけ出すことにほかならない。それはまた、プルーストの主題にもつながってくるだろう。

ルドンのパステル画を見終え、次の部屋に移ると、その部屋の明るさや、壁に架かる印象派の絵が、奇妙に現実感を失って見えた。「夢のなかの方が美しいの に、なぜ描き続けるのか」とは、映画『デカメロン』のラストシーンで、ジョットの贋作者を演じたパゾリーニが呟く言葉だが、まさに私がそのとき感じた気分 を言い当てている。ルドンの夢に浸された目には、現実の風景を写し取った印象派の作品は、どこか皮相にさえ見えた。それは、パステル画展示室の薄暗がり と、油絵展示室の明るさとの対照によって、一層強められた。後に、私はパゾリーニの台詞が、「夢のなかの方が美しいのに、なぜ語り続けるのか」というフェ ルナンド・ペソアの詩句をもじったものであることを知った。

なぜ描き続けるのか。それは芸術とコミュニケーションの問題でもある。前回の自画像論でも少し触れたが、世界と画家との間の交流は、パステルや油絵具と いった物質的手段を通じて、はじめて成立する。絵の見方について私に多くのことを教えてくれた丹治恆次郎先生が、その浩瀚なゴーガン伝で用いた表現を借り れば、画布は世界と画家との「接点」なのである。それは単に外界に既にある世界を画布に定着させるということではない。そうではなくて、画布によって、は じめて世界と画家との関係が生じるという現象学的な構造を意味している。世界も画家も、画布という接点とともに誕生するのであって、画布という「場」を得 ないうちは、主体も客体もない。出会いが、すなわち誕生である。ところで、夢とは、まさにこの出会い以前の世界のイメージである。画布の上には、特定の色 彩や形態がなければならない。それは常に目覚めた後の、昼の産物でしかあり得ない。その意味では、夢そのものを画布に定着させることは不可能である。それ ゆえ、暗示という手法が要求される。

ルドンの絵画は、まさに画家と世界が出会う以前のイメージを伝えようとしている。それは見たことのない風景なのだから、再現しようがない。そこで、おぼろ げな記憶を頼りに、暗示することになる。「目を閉じて、よく見なさい」と言ったのは、ジャン・ジロドゥーの小説の登場人物だったと思うが、この警句はルド ンのエピグラムでもある。目を閉じて、夜のなかでしか見えないものを、色彩とかたちによって、昼の世界につなげること。それこそがルドンが自らに与えた使 命だった。


ルドン「花束」画像出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/


【第1回】 レンブラントの自画像 (2005年2月6日)


 レンブラントの自画像を初めて見たのは、たぶんデン・ハーグのマウリッツハウス美術館である。そ れは、まだ画家が若い頃の自画像で、顔はこころもち右側を向き、髪はカールして、自然に逆立っている。唇は赤く輝き、目は陰になっているが、野心に明るく 燃えていた。つやのよい頬にはわずかに赤みがあり、嬉しいことでもあるのか、口が少しだけ開いている。自分の才能に疑うところなく、やすやすと描きあげた ような作品だ。若い頃から大したものだ、というのが私の最初の感想だった。

だ が、本当に驚嘆したのは、同じ美術館で二枚目の自画像を見たときだ。それは先程見た自画像から40年後の、老境にさしかかろうとしている画家の姿だった。 ポーズはほぼ同じで、やや右側を向き、目もそちらの方を見ている。頬はたるみ、眼差しは力なく、眉間には年齢が刻んだ皺が寄っている。肩も落ち込み、なす すべもなく太って、顎が二重になっている。ターバンのようなものを頭に巻いているが、生え際はほとんど白髪に変わっている。無惨とさえ言いたくなるほどの変貌ぶりだった。

そ の後、私はいろいろな美術館でレンブラントの自画像に出会った。そのたびに、人生のさまざまな時期における彼の表情と対面した。そのうち、レンブラントの 生涯は、モザイクのタイルを嵌めていくように、より抽象的な一枚の絵画として、私に立ち現れてくるように思われた。彼の人生は、たとえ事業の失敗や借金や 息子の夭折といった伝記的な情報がなくても、自画像を見ていけば、絵画的に理解できるだろう。


初めて単独の自画像を描いたのはデューラーだとされている。私はミュンヘンでその実物を見たとき、あまりの傲慢さに嫌気が差したのを覚えている。それは、私が自画像の基準にレンブラントを置いていたためだ。

一 般に、肖像画を描く動機は大別して二つある。一つは人物を讚えるため、もう一つはその人物を告発する、あるいはその人物が置かれている環境を告発するため である。フランス・ハルスによるブルジョワの肖像が、その前者の典型だとすれば、レーピンによる農民の肖像は、後者に属するだろう。いずれの場合も、肖像 画の制作は、その人物が記憶に値するのだということを意味している。そして、その限りにおいて、画家は人物をよりよく画面に定着するべく、モデルの性格や 心理までを写し取ろうと努力する。

そ う考えると、画家の自画像というのは、不思議な肖像画である。デューラーは、おそらく自分を讚えていた。少なくとも、自分の圧倒的な伎倆を恃んで恥じない ところがあった。彼の自画像が私に対して与えた嫌悪感は、自らを描くに値する人間であると宣言しているかのような尊大さに由来しているのかもしれない。そ れは、この自画像が半ばキリストを模していることからもうかがえる。

と ころが、レンブラントの自画像は、自分を他人に見せるためにあるのではない。そうではなくて、自分を他人の目で見るために、彼は自らを描くのである。いか なる美化も許さない苛酷な目で、自分を描けたとき、初めて彼は他人をも描くことができるようになるだろう。画家は見つめる目であると同時に、見つめられる 対象でもある。その両者がぶつかるとき、決して焦点がぶれることがなかったのが、レンブラントの眼差しだった。それは、ずっと時代を下って、ヴァン・ゴッ ホが狂気の淵で描いた晩年の自画像にも共通する、非情な眼差しだ。クレラー=ミュラー美術館で私が見たゴッホの自画像は、こちらを見据え、何が彼をここま で追いやったかを苦しく問い詰めているようだった。本当に狂った人間には、追いつめられた自分を見つめることはできない。たとえ、通常の意味での生活能力 を失っても、彼は、絵画という言語だけは、まだ操ることができた。この言語を通してのみ、ゴッホは世界を捉えることができたし、世界における自分を認識す ることができた。絵画は、彼と世界との接点であり、彼は世界の側から見た、ほとんど狂人としての自分を描くことで、逆に彼にとっての世界のあり方を提示し た。

もとより、 ゴッホは極端な例にすぎない。あらゆる優れた自画像には、このような非情な眼差しがある。たとえば、ゴヤ。マドリッドの王立サン・フェルナンド芸術アカデ ミーが所蔵する自画像は、その構図からして、あきらかにレンブラントを真似たものだ。伝記によると、ゴヤはレンブラントを最も尊敬していたという。先程述 べた、非情な眼差しは、まさにゴヤが最もよく具えていた目である。宮廷画家として王室の肖像画を任される一方で、彼は「黒い絵」と題された一連の壮絶な作 品を黙々と描き続けていた。

ただし、ゴヤの自画像には、レンブラントの自画像には見当たらない、強い決意としたたかさが感じられる。それは闘争する人間の顔だ。逆に言えば、レンブラ ントの自画像には、怒りがない。どれほど人生が、彼の才能が約束したはずの幸福を裏切ったとしても、彼は絵画のなかで怒ることができなかった。晩年に至る につれ、画面に表れてくるのは、むしろ悲しみと疲れである。もちろん、そうした消極的な感情ばかりが込められているわけではない。根本的なところで、レン ブラントの絵には、対象の存在を肯定する健康的な志向がある。よく光と闇の画家と言われるが、光が当たる、ということは、そこに照らされている何者かを見 出すことであり、それを描くということは、常にその光のなかにあるものを肯定することである。自画像に関して言えば、まさに悲しみや疲れにもかかわらず、 光のなかに自分が存在していることを、彼は確認し続けた。それは自分を讚えることではないが、何かを告発しているわけでもない。レンブラントの自画像が、 非情な厳しさと同時に、ある種の安らぎさえ湛えているとすれば、それは彼が常に自らの存在を受け入れていたからだろう。

つい最近、私はブザンソンの美術館を訪れた。そ こには、フランシュ=コンテ出身の画家クールベの自画像が飾られていた。暗い背景から顔だけが浮かび上がるような構図で、熱に浮かされたような目つきで、 こちらを見下しているようだ。30歳頃の作品だという。クールベといえば、滝や海辺の風景画が有名だが、彼はそれらの風景を、美しいから描いたのではな く、そこにあるから描いたにすぎない。それが彼の闘いだった。黒く沈んだ自画像からは、クールベの野心と孤独と決意が、痛々しいほど伝わってくる。

こ の自画像の対面の壁に、別の肖像画が掛かっていた。それは、クールベによるレンブラントの自画像の模写だった。またしても、と私は思わず唸った。「天使は 描かないのか」と訊かれて、「連れてきてくれればすぐにでも描く」と言下に答えたというリアリズムの開祖にとって、おそらく、レンブラントは、非情な目を 養うために、一度は通過しなければならない先人だったに違いない。

クー ルベはその後、よりナルシシズムの強い自画像を描くようになった。ときには、自らを傷ついた兵士に見立てた絵も描いた。だが、彼の美学では、人物の内面を 探究することはできない。クールベの描く人物像は、ポーズや表情は劇的でも、奇妙に平板である。外から見えるものだけを禁欲的に描くということは、人間の 顔に、さまざまな思い込みを投影することをやめることでもある。そのとき、人間の造作は、岩肌ほどにも複雑ではなくなるだろう。

思 えば、肖像画というジャンルは、基本的にリアリズムの産物である。したがって、20世紀は、肖像画が廃れていった時代でもある。ピカソの『モデルと画家』 は、人物には見えても、もはや肖像とは呼べない。描かれている画家がピカソかどうか、判断のしようもない。また、たとえ肖像画を描いたとしても、そこに統 一的存在として一人の人間を写し取ろうという意欲は、もはや失われてしまった。フランシス・ベーコンの自画像は、画家の内面も容貌も定かには伝えない。人 間は、統一的存在どころか、身体的にも、輪郭からはみ出し、歪み、流れ出していくものとして描かれている。その孤独感は、ほとんど癒しがたいものだ。非情 な目という点では、ベーコンほど苛酷な目をもった画家も少ない。一方、リュシアン・フロイトやベン・シャーンなどは、ブルジョワ文化の時代とは異なる方法 による肖像画を模索したが、具体的な個人に執着することは、彼らの時代には大きな困難を伴ったはずだ。彼らの時代、と言ったが、もちろんそれは私たちの時 代である。ブルジョワ文化と違い、私たちは、自分を確固たる個人として意識することが難しくなっている。私たちは、生活のなかで、何よりも画一的な消費者 の一人として存在することを強いられているからだ。現代の芸術家の課題は、こうした個人をどのようにして救い出すかというところにある。

20 世紀後半は、そもそも油絵具による制作そのものが、大きく問題にされた時代である。写真やビデオアートにおける自己表象は、世界の色と形態を自ら再創造す る画家の仕事とは、自ずと異なる。それについては、ここでは論じない。ただ、レンブラントの自画像を見るたびに、私たちはこのように自分を認め、受け入れ ることはできないのではないか、と思わざるを得ない。画家の非情な目で眺められたとき、一人の個人として、あのように光のなかにいることに耐えられるだろ うか。レンブラントの自画像は、青年期から晩年に至るまで、すべて孤独で、ときには惨めで、しかし充実した、個人の肖像である。それはほとんど「栄光」と 呼びたくなるようなものだ。だが、ヴィクトル・ユゴーがいみじくも言ったように、芸術家の栄光は、幸福を通じて実現されることは稀なのである。




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